第2章ー11
「どうしたぁ? もう寝ちまったかー?」
「……」
「ケハハハハハッ! さすがに意識がぶっ飛んだんじゃねぇの?!」
その日の晩。
二人は巡回の業務を終え、小屋へと戻ってきた。
片方は、どこか苛立ちを滲ませた顔をしている。巡回中に何か気に入らないことでもあったのだろうか。
……まあ、そんなことはどうでもいい。
どちらにせよ、自分の扱いが変わるわけではないのだから。
そして、再び始まった。
自分は今日も、“サンドバッグ”にされた。
拳が飛んでくる。
蹴りが叩き込まれる。
何度殴られたのか、もう覚えていない。
口の中に広がっていた血の味も、いつしか薄れていた。身体中に走っていた痛みも、今ではひどく遠い。
痛くないわけじゃない。
ただ、痛みを感じ取ることさえ、どうでもよくなってしまったのだ。
殴られても、蹴られても、身体はろくに反応しない。
心もまた、何も感じなくなっていた。
――それでも、死ねない。
意識が途切れそうになるたび、身体が勝手に生を繋ぎ止める。
この無駄に頑丈な肉体を、少しだけ恨めしく思った。
「……ふぅ。さすがに、いたぶるのも疲れたな。ちょっと休んだら戻るか」
二人はようやく手を止め、小さなテーブルのそばに腰を下ろした。
解放されたわけではない。
ただ、壊れない玩具を一時的に放置した。それだけのことだった。
「ったくよぉ。ディシプリンの野郎、いちいちうるせぇんだよ。ちょっとサボったくらいで、グチグチ言いやがって」
「こんな場所を巡回したところで、意味なんかねぇのにな。あいつ、真面目すぎんだよ」
どうやら、先ほどから苛立っていた理由はそれらしい。
ディシプリン。
奴らの仲間の一人だ。名前だけなら、自分も何度か耳にしたことがある。
「そういやよ……ディシプリン達から、こっそり聞いた話があるんだが」
「ああん? なんだよ」
「――グランドオーダーが倒されたらしいぜ」
「はっ?! マジかよ!?」
その瞬間、二人の表情が一変した。
先ほどまで浮かべていた薄ら笑いが消え、部屋の空気が目に見えて張り詰めていく。
グランドオーダー。
そいつが何者なのか、自分には分からない。
だが、今の反応を見る限り、奴らにとっては相当な大事件らしい。
「……誰にやられた?」
「噂じゃ、勇者らしいぜ」
「ッ……!?」
勇者。
その言葉を耳にした瞬間、沈みきっていた意識が、ほんのわずかに揺れた。
この世界に勇者が存在する。
そんな話を、昔どこかで聞いた気がする。
当時は半信半疑だった。いや、正直に言えば、今だって本当にいるのかどうか疑っている。
だが――魔物達がここまで動揺するほどの存在が、実際にいるのだとしたら。
……だから、何だというのだろう。
勇者が実在したところで、自分を助けに来てくれる保証なんてどこにもない。
そもそも、この村には魔障結界が張られている。外部から容易に踏み込めるような場所ではないはずだ。
それに……。
――自分は、今日か明日には死ぬつもりだった。
今さら希望を抱いたところで、何になる。
「……あの人の縄張り、ここから遠くなかったよな?」
「ああ。馬なら三日か四日ってとこだな」
「勇者は馬より早く動けるって聞くぜ。魔法か何かでよ」
「……」
二人の会話が途切れた。
先ほどまでの軽薄な態度は、もう見る影もない。
額にはじっとりと汗が滲み、互いの顔を窺うような視線が交差している。
どうやら、ただの噂話では済まされない事態だと理解したらしい。
「その話……いつ頃聞いた?」
「ここへ来る前だ。下手すりゃ、今日か明日には――」
「おい」
低い声が、相手の言葉を遮った。
「なんでそれを黙ってた?」
「い、いや……噂話程度だと思って……」
「お前、馬鹿か!!」
「うぐっ?!」
次の瞬間、拳が仲間の顔面に叩き込まれた。
殴られた男の身体がよろめく。
だが、殴った側も、もはや相手をいたぶっている場合ではないと分かっているのだろう。怒りに歪んだ顔には、それ以上に強い焦りが浮かんでいた。
「その話が本当なら……こんなことしてる場合じゃねぇ……!」
『――ええ。その通りです』
「ッ!?」
立ち上がった、その瞬間だった。
背後から、静かな声が響いた。
二人の動きが止まる。
弾かれたように振り返った先に立っていたのは――エイシャだった。
深いローブに身を包み、顔はフードの影に覆われている。
その表情を窺うことはできない。
それでも、彼女がそこにいるというだけで、場の空気が一段と冷え込んだように感じられた。
「エ、エイシャ様!? なぜ、このような場所に……?」
『それはこちらの台詞ですが……なるほど、そういうことですか』
エイシャの視線が、二人から自分へと移る。
だが、そこには何の感情も見受けられなかった。
憐れみも、嫌悪も、興味さえもない。
まるで、そこに転がっているのが人間ではなく、ただの道具であるかのように。
……いや。
実際、彼女にとって自分は、その程度の存在なのだろう。
『皆を集めるよう、ディシプリンに命じました。君達が見当たらないと、愚痴をこぼしていましたよ』
「……っ」
二人の顔が引きつった。
どうやら、上の命令を無視していたことを知られてしまったらしい。
先ほどまでの威勢はどこへやら。二人は揃って口をつぐみ、エイシャの次の言葉を待っていた。
『私から言いたいこともありますが、それは後です』
淡々とした声音。
怒鳴ることも、責め立てることもない。
それなのに、二人は身じろぎ一つできずにいた。
『今は――早く、皆の元へ向かいなさい』
「「は、はい!!」」
二人は慌てて返事をすると、逃げるように小屋を飛び出していった。
足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
残された小屋に、再び静寂が訪れた。
エイシャはその場に立ったまま、しばらく二人が消えた扉を見つめていた。
そして、不意に足元の影が揺らめく。
彼女の身体が、ゆっくりと沈んでいった。
まるで水面に溶け込むかのように、深い影の中へと消えていく。
――そうか。
影を渡って、この小屋に侵入してきたのか。
そんなことを考えていると、消えゆく彼女の声が、静かに耳へ届いた。
『……そろそろ、この村を捨てる時が来たか』
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に、得体の知れない不安が込み上げた。
村を捨てる。
それはつまり、ここにいる魔物達が、この場所からいなくなるということなのだろうか。
……いや、違う。
そんな単純な話ではない気がした。
勇者の接近を察知したエイシャが、何かを決断した。
そして、その決断は――きっと、自分にとってろくなものではない。
根拠なんてない。
ただ、そう感じた。
今までだって、十分すぎるほど地獄だった。
これ以上、何を奪われるというのだろう。
それでも。
エイシャの最後の一言が、いつまでも耳から離れなかった。
まるで――。
**これから始まるのは、今までの地獄すら生ぬるく思えるほどの、もっと酷い何かだと。**
そう告げているかのように。




