第2章ー9
翌日。
自分は皆から離れ、いつもの作業を放り出していた。
もう、どうでもいい。
仕事をサボって罰を受けようが、知ったことではない。
殴られようが、蹴られようが、食事を抜かれようが――今となっては、それすら面倒だった。
どうせ何をしたところで、状況は何一つ変わらない。
だったら、いっそ。
最初から殺してくれたほうが、よほど楽なのかもしれない。
そんな考えさえ、当たり前のように浮かんでくる。
自分はふらふらとした足取りで、村の端へと向かっていた。
一歩、また一歩。
地面を踏みしめているはずなのに、足裏の感覚はひどく鈍い。自分が本当に歩いているのか、それとも夢の中を彷徨っているだけなのか、分からなくなりそうだった。
逃げようとは思わなかった。
ここから脱出すれば助かるかもしれない。
いつか誰かが救いに来てくれるかもしれない。
そんな希望は、とっくの昔に失っていた。
昨日までの自分なら、どれほど絶望的な状況でも、何かできることはないかと考えていたのだろう。
家族を守りたい。
仲間を助けたい。
いつか、こんな生活から抜け出したい。
けれど、今はもう――何も考えたくなかった。
ただ、終わりにしたい。
それだけだった。
昨晩、ラエルに言われた言葉が、頭の片隅にこびりついて離れない。
『死ぬなら、俺たちの目につかないところでな』
……そうだな。
だったら、その通りにしよう。
自分がいなくなれば、皆も少しは楽になるだろう。
これ以上、心配をかけることもない。
迷惑をかけることもない。
誰かの前で、無様な姿を晒すこともなくなる。
どうせ生きていたところで、もう誰の役にも立てないのだから。
自分はゆっくりと顔を上げ、周囲を見渡した。
この村に、崖はない。
海もない。
飛び降りることも、身を投げることもできない。
自分で自分の命を絶つための道具を探す気力もなければ、何かをするために身体を動かすことさえ億劫だった。
……本当に、何も残っていない。
生きる気力も。
誰かを守りたいという願いも。
明日を迎えたいという気持ちも。
今の自分には、自分の命を終わらせる方法を考えることさえ、ひどく面倒に思えた。
――もっと簡単に、終われる方法はないのか。
ぼんやりと考えていた、そのときだった。
ふと、一つの考えが脳裏をよぎる。
魔障結界。
村を覆い尽くす、禍々しい黒い霧。
結界と呼ぶには、あまりにも異様な代物だった。
以前、あいつ――エイシャが得意げに語っていたことを思い出す。
濃密な魔力を浴び続ければ、人間の身体は耐えきれずに壊れていく。
場合によっては、命を落とすことさえあるのだと。
その口調には、命の重さを気にかける様子など微塵もなかった。
まるで、人間の命など、実験の結果を確かめるための道具にすぎないとでも言うように。
……あの霧の中なら。
もしかすると、自分も終われるかもしれない。
村の正門側にも結界はある。だが、そちらは魔物の巡回が多く、近づけばすぐに見つかるだろう。
見つかれば、また面倒なことになる。
それに、あんな場所で騒ぎを起こせば、ラエルたちにも気づかれてしまうかもしれない。
最後くらい、誰にも迷惑をかけたくなかった。
……いや。
誰かに迷惑をかけることさえ、もうどうでもいいはずなのに。
そんなことを気にしている自分が、少しだけおかしかった。
それでも自分は、正門とは反対の方向へ足を向けた。
目指すのは、未開の森が広がる村の外れ。
かつては子供たちが虫取りをして遊んでいた場所だ。
木々の間を駆け回り、珍しい虫を見つけては、皆で騒いだこともあった。
あの頃は、ここがこんな場所になるなんて、想像もしなかった。
今では腐りかけた木々が立ち並び、その向こうには黒い霧が不気味に漂っている。
誰も近づこうとしない、死の境界線。
その向こう側には、何も見えなかった。
霧の奥がどうなっているのか、知る者はほとんどいないのだろう。
もし、あの中で死んだら。
自分の身体は、誰にも見つけてもらえないかもしれない。
墓を作ってもらうことも。
誰かに弔ってもらうことも。
名前を呼んでもらうことさえ、なくなるのかもしれない。
……それでいい。
今の自分には、それが都合よく思えた。
誰にも見つからず、誰にも知られず、ただ静かに消えていく。
それが、今の自分に残された、最後の逃げ道だった。
「……ふぅ……」
やがて、自分は結界のすぐそばまでたどり着いた。
近づいただけで、胃の奥から吐き気が込み上げてくる。
額には嫌な汗が浮かび、肌がじりじりと焼かれるように痛んだ。
以前、魔造種を保管していた倉庫で感じた、あの不快な魔力。
あれとは比べものにならない。
濃密な魔力が、目に見えない圧力となって全身にまとわりついてくる。
「ッ……ゲホッ! ゲホッ!!」
霧をほんのわずかに吸い込んだだけで、激しく咳き込んでしまった。
喉が焼けるように痛い。
涙が滲み、肺の奥に何かが絡みついたような、不快な感覚が広がっていく。
……なるほど。
少し触れただけで、これほど身体に異常が出るのか。
こんな場所に長く留まれば、身体がもたないのも当然だろう。
ましてや、霧の中に足を踏み入れれば――。
「……ちょうど、いい……」
掠れた声が、口からこぼれた。
皮肉なものだ。
普段なら、近づくことさえ恐ろしいはずの場所なのに。
今の自分には、そこが救いのように思えた。
苦しむ時間は、できるだけ短いほうがいい。
これ以上生きて、また何かを失うくらいなら。
これ以上、誰かの死を見届けるくらいなら。
これ以上、自分が何もできないことを思い知らされるくらいなら。
もう、何も感じなくなってしまいたかった。
「……待ってて。お父さん、お母さん……」
自然と、そんな言葉が口をついて出た。
「俺も……そっちへ行くから」
死んだら、二人に会えるのだろうか。
それとも、死後の世界なんてものは存在しないのだろうか。
自分が地獄へ落ちるのか。
それとも、また別の世界へ生まれ変わるのか。
そんなことは、もうどうでもよかった。
ただ、もう終わりにしたい。
それだけだった。
自分は、目の前に漂う黒い霧を見つめた。
何も見えない。
何も聞こえない。
その先に何が待っているのかさえ、分からない。
それでも、恐怖はなかった。
いや――恐怖を感じる心さえ、どこかへ置き去りにしてしまったのかもしれない。
自分は、ゆっくりと片足を持ち上げる。
そして、その足を霧の向こうへ踏み出そうとした。
その瞬間。
「――おい」
「ッ!?」
背後から、低い声が響いた。




