第2章ー8
「……」
「……」
昨日と同じように、私はサダメを膝枕しながら治癒魔法をかけていた。
けれど、昨日とは違う。
二人の間には、息苦しくなるほど気まずい沈黙が流れていた。
サダメは人形のように身じろぎ一つせず、ただぼんやりと天井を見つめている。
ラエルは、あの言葉を吐き捨てたあと、私たちから離れた場所で一人、眠りについていた。
そして、他の子たちはというと――先ほどの喧嘩がよほど怖かったのか、泣き出す子もいれば、怯えたように身体を震わせている子もいた。
皆、すぐ近くにいる。
手を伸ばせば届く距離にいるはずなのに、心だけが遠く離れてしまったようだった。
……寂しい。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
昨日までは、少なくとも皆で支え合おうとしていたはずなのに。
このままで、本当にいいのだろうか。
もし、このまま皆が互いに距離を置き続けたら。
もし、誰もサダメに手を差し伸べないまま、彼がいなくなってしまったら――。
想像しただけで、胸がぎゅっと締めつけられた。
今、私たちの心は、少しずつ闇に呑み込まれようとしている。
誰もが傷つき、疲れ果てている。明日を生きることさえ、当たり前ではない毎日。
このままでは、きっと何かが壊れてしまう。
そんな予感が、重苦しい空気の中に漂っていた。
――私が、なんとかしなきゃ。
そう思った。
誰かが動かなければ、何も変わらない。
だったら、まずは私から。
サダメを、少しでも元気づけてあげたい。
「ねえ、サダメ?」
そっと声をかけてみる。
「……」
返事はなかった。
目は開いている。眠っているわけではないはずだ。
それなのに、こちらを見ようともしない。
きっと、言葉を返す気力すら残っていないのだろう。
……どうしよう。
無理に励ましたところで、きっと彼の心には届かない。
そもそも、私はサダメがどうしてここまで追い詰められてしまったのか、その理由さえ知らないのだ。
何があったのか。
何を見たのか。
どんな思いを抱えて、あんな言葉を口にしたのか。
何一つ、分からない。
分からないまま、ただ「元気を出して」と声をかけるなんて、私にはできなかった。
――じゃあ、どうすればいいんだろう。
考えても、答えは出てこない。
そんなとき、ふと、昔のお父さんの言葉が脳裏をよぎった。
『相手のことが分からないときは、まず自分のことを話しなさい。そうすれば、相手も心を開くきっかけを掴めるかもしれないから』
薬師だったお父さんは、よくそう言っていた。
病気や怪我を治すだけが、薬師の仕事ではない。
患者さんの話を聞き、心に寄り添うことも大切なのだと。
……今の私にできることは、それくらいしかないのかもしれない。
私は小さく息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「私ね、この村が大好きなの」
サダメは何も答えなかった。
それでも、私は話を続けた。
「お父さんとお母さんが大好きだった。二人とも優しくて、物知りで、色んなことを教えてくれたの。知らないことを質問すると、いつも丁寧に教えてくれてね。新しいことを知るたびに、世界が少しずつ広がっていく気がしたんだ」
懐かしい記憶を辿るように、言葉を紡いでいく。
「村の人たちも、みんな温かかったよ。誰かの家に遊びに行けば、お菓子をもらえたり、ご飯をごちそうしてもらえたりしてね。夜になると、皆で集まって、毎晩お祭りみたいに賑やかだったんだよ」
そこまで話して、私は思わず小さく笑った。
「……あ、でも、おじさんたちがお酒を飲みすぎて喧嘩を始めるのは、ちょっと怖かったかな。次の日には何事もなかったみたいに仲直りしてたけど」
今思えば、そんな光景さえ懐かしい。
当たり前だと思っていた日常。
いつまでも続くと信じていた、何気ない毎日。
それらがどれほど大切なものだったのか、失って初めて気づかされた。
「あとね、ドレーカ名物のじゃがいも料理も大好きだったなぁ」
少しでも楽しかった気持ちを思い出したくて、私はさらに話を続ける。
「分厚く切ったポテトも美味しかったけど、焼いたじゃがいもにバターをのせて食べるのが最高で……。口の中に広がる香りがすごく良くて、いくらでも食べられそうだったんだよ」
思い出すだけで、口の中にあの味が蘇るようだった。
「でも、バターって高級品だから、そんなに頻繁には食べられなかったんだよね。たまに食卓に出てくると、嬉しくて嬉しくて……。その日はずっと機嫌が良かった気がする」
ふふっ、と笑みがこぼれる。
あの頃は、そんな些細なことで幸せになれた。
明日も同じ日常が続くと信じていたから。
……けれど。
「……でも、もう戻れないんだよね」
自然と、笑顔が消えた。
「お父さんもお母さんもいなくなっちゃった。村の人たちも、たくさん死んじゃった……。私たちと同じくらいの年の子だって、何人も殺された」
口にするたび、胸の奥が痛んだ。
思い出したくない。
できることなら、あの出来事を全部忘れてしまいたい。
けれど、忘れることなんてできない。
あの日、私の知っている世界は、跡形もなく壊されてしまったのだから。
「……もう、あの頃みたいには戻れない」
声がかすかに震えた。
それでも、私は言葉を止めなかった。
「それでもね、私は生きたいって思うの」
自分の胸に言い聞かせるように、ゆっくりと口にする。
「死んじゃったら、楽しかった思い出まで、全部なくなっちゃいそうで怖いんだ。お父さんやお母さんと過ごした時間も、村の皆と笑い合ったことも……。私がいなくなったら、そういう思い出を覚えている人が、一人減っちゃうんだよね」
それは、ずっと心の奥に抱えていた思いだった。
私が生きている限り、あの頃の記憶は消えない。
大好きだった人たちが、確かにここにいたという証を、私の中に残しておける。
それに――。
「……それにね、生きていれば、また楽しい思い出を作れるかもしれないでしょう?」
ほんの少しだけ、顔を上げた。
「いつか、ここにいる皆と一緒に、また笑える日が来るかもしれない。美味しいものを食べたり、くだらないことで喧嘩したり、皆で遊んだり……。今はこんな毎日だけど、いつか、そんな日が戻ってくるかもしれない」
もちろん、そんな未来が本当に訪れる保証なんてない。
明日、私たちがどうなっているのかさえ分からないのだから。
それでも。
ほんの少しでも可能性があるのなら、私は信じていたかった。
また笑える日が来ることを。
大切な人たちと、幸せな時間を過ごせることを。
そして――。
「……もちろん、サダメとも」
私は、隣にいる彼をそっと見つめた。
サダメは相変わらず、何も答えない。
私の話を聞いているのかどうかも分からなかった。
それでも、伝えたかった。
「だから……サダメにも、生きていてほしいな」
胸の奥が、きゅっと痛む。
「サダメがいなくなったら、私、すごく悲しいから……」
それは、偽りのない本音だった。
サダメは、私たちの代わりに何度も殴られてきた。
皆が耐えられないような仕事を引き受けて、どれほど苦しくても、弱音を吐かずに頑張ってきた。
だからこそ、彼が何を抱えているのか、私は知りたかった。
でも、今は無理に聞き出そうとは思わない。
ただ、生きていてほしい。
それだけは、どうしても伝えたかった。
「……」
サダメから、返事はなかった。
表情も変わらない。
私の言葉が届いたのか、それとも何一つ届いていないのか。それさえ、分からなかった。
……ううん。
今は、それでもいい。
私はそっと息を吐き、サダメにかけていた治癒魔法を止めた。
「……さて。私の話は、これでおしまい!」
できるだけ明るい声を出してみる。
「今日は一緒に寝よう?」
返事は、やっぱりなかった。
それでも私は、サダメの隣に身体を横たえ、二人で一枚の毛布に潜り込んだ。
すぐそばにいるのに、サダメは何も話してくれない。
背中合わせになったまま、私たちは黙って横になっていた。
……少しだけ、胸がドキドキする。
こんな状況なのに、男の子と同じ毛布で眠るなんて。
でも、不思議と嫌ではなかった。
今の私には、サダメのそばにいることが必要な気がしたから。
この時間も、いつか思い出になるのだろうか。
できることなら、そのときは二人で笑いながら思い出したい。
「あのときは大変だったね」って。
「でも、頑張って生きてきてよかったね」って。
そんなふうに話せる日が、いつか来てほしい。
……ううん。
きっと、来る。
そう信じなければ、今の私は前に進めないから。
私は毛布の中でサダメをギュッと抱きしめながら、そっと目を閉じた。
明日の朝。
目を覚ましたサダメが、ほんの少しでも元気になっていますように。
また、いつものように話せるようになっていますように。
そんな願いを胸に抱きながら、私は静かに眠りへと落ちていった。
――転生勇者が死ぬまで、残り7803日




