第1章ー2
――それから三ヶ月後。
転生したという事実を知った自分は、この三ヶ月間で見聞きした情報をもとに、自分が置かれている状況を整理することにした。
まず、ここは前世で暮らしていた世界とはまったく異なる世界らしい。
要するに、異世界だ。
……うん。オタクにとっては、喜ばしいことこの上ない状況である。
もっとも、実際に転生してみると、喜んでばかりもいられないのだが。
なぜなら、自分は現在、生まれたばかりの赤ん坊だからだ。
自由に動けない。まともに話せない。食事も一人ではできない。
異世界転生という夢のような出来事を経験したというのに、今の自分にできることといえば、寝るか、泣くか、ミルクを飲むかの三択である。
……いや、もう少し何かあってもいいだろ。
それはさておき。
不思議なことに、自分はこの世界の言葉をすでに理解できていた。
誰かの話を聞いても意味が分からない、なんてことはない。両親の会話も、村人たちの世間話も、普通に理解できる。
なぜなのかは、さっぱり分からないが。
もしかすると、死んだあとに神様とやらに会い、転生に必要な知識や能力を与えられたのかもしれない。
……いや、そもそも神様に会った記憶すらないんだけど。
仮にそうだったとしても、どんな能力を授かったのかは不明だ。言語を理解できるのも、その恩恵なのだろうか?
まあ、神様と対面していたら、の話だが。
考えたところで答えは出そうにないので、この件はいったん保留にしておく。
今は、自分が暮らしている世界について知ることの方が重要だ。
現在地は、クルーシア王国の辺境にあるドレーカという小さな村。
自分は、この村で生まれた。
両親も同じ村の出身らしい。
父は以前、王都で働いていたそうだが、故郷に戻ってきた際に母と知り合い、結婚したのだとか。
……ちなみに、両親のなれ初めについては割愛する。
別に興味がないわけではないが、今の自分には、他に知っておきたいことが山ほどあるのだ。
それに、赤ん坊の身体では情報収集にも限界がある。聞き耳を立てているだけでも、なかなか大変なのだから。
そんな自分の父親だが、実はかなりすごい人物だった。
なんと、王国騎士団の副団長を務めていたらしい。
副団長といえば、騎士団の中でも相当な実力者のはずだ。そんな人物が、どうしてこんな辺境の村で暮らしているのか。
理由は単純で、母との結婚を機に騎士団を辞め、故郷で家庭を築くことにしたらしい。
現在は村人たちの仕事を手伝って収入を得ながら、自給自足のための小さな畑も所有している。
元副団長という経歴を考えれば、ずいぶんと穏やかな暮らしぶりだ。
父が騎士団時代に稼いだ貯金も、将来子どもが生まれたときのために、なるべく手をつけずに残していたという。
……という話を、たまに家へ飲みに来る父の友人から聞いた。
酒の肴として語られた話なので、どこまで詳しい事情を知っているのかは分からないが、少なくとも父が家族のために備えていたことは間違いなさそうだ。
ちなみに、余談ではあるが。
その父の飲み仲間に抱っこされそうになり、自分が泣いて抵抗したことは一度や二度ではない。
いや、だって怖いだろ。
この身体は、ちょっとしたことで命を落としかねない赤ん坊だ。そんな状態で、酒臭い酔っ払いに抱き上げられるなんて、たまったものではない。
相手が父であっても、酔っているなら話は別だ。
もちろん、自分が泣き出すたびに母が飛んできて、父の友人を叱るところまでが一連のお約束である。
……まあ、そのあと自分まで母にあやされることになるのだが。
さて、話を戻そう。
この世界について、もう一つ分かった重要なことがある。
それは――魔法が存在するということだ。
これは、オタクの自分にとって朗報だった。
異世界に転生したという実感が、魔法という二文字によって一気に湧いてきたのである。
何しろ、この世界では魔法が特別なものではない。
日常生活の中で、ごく当たり前のように使われているのだ。
何度も目にしているから、疑いようのない事実である。
父は火の魔法を得意としており、火を起こす必要があるときには、村でも大いに重宝されている。
料理に使う火を用意したり、寒い日に暖を取ったり。火は生活に欠かせないものだ。特に冬場ともなれば、火を起こせる人間は引っ張りだこなのだろう。
……それにしても。
王国騎士団の副団長にまで上り詰めた人物が、今では村の火おこし役とは。
いや、もちろん、それが悪いと言いたいわけではない。
父が自分で選んだ生き方なのだろうし、家族と穏やかに暮らせているのなら、それはそれで幸せなことだと思う。
ただ、騎士団時代の知り合いが今の父を見たら、どんな顔をするのだろうか。
ちょっと気になる。
そして、魔法と同じくらい自分の興味を引いたものがある。
それは、冒険者という職業の存在だ。
……そう、この世界には冒険者がいるらしい。
いやあ、実に素晴らしい。
異世界といえば冒険者。冒険者といえば魔物の討伐。魔物の討伐といえば、やっぱり冒険である。
オタクとしては、一度くらい憧れてみたくなる職業だ。
もっとも、この世界には冒険者ギルドという便利な組織は存在しないらしい。
仕事を受けるにしても、仲間を集めるにしても、基本的には個人で動く必要があるそうだ。
各地には掲示板が設置されており、そこに依頼やパーティー募集の張り紙が掲示されている。
自分も何度か、掲示板を熱心に眺めている冒険者らしき人々を見かけたことがある。
なるほど。ああやって仕事を探すわけか。
……とはいえ、前世でぼっちだった自分にとって、仲間を集めてパーティーを組むというのは、なかなか高いハードルになりそうだ。
いや、そもそも今は赤ん坊なので、冒険者になる以前の問題なのだが。
将来のことを考えるだけなら自由だろう。
ちなみに、冒険者というからには、危険な魔物の討伐なども請け負うのだろうか。
そう考えると、なかなか夢のある仕事だ。
……危険も多そうだけど。
そして、魔物といえば。
この世界には、魔王が存在するらしい。
これもまた、自分が村で暮らすうちに知った情報の一つだ。
父の飲み仲間が集まる席では、魔王の話題がたびたび持ち上がる。大人たちが真剣な顔で議論するほどなのだから、相当に深刻な問題なのだろう。
魔王は千年以上も前から存在し、人類と長きにわたって敵対しているという。
多くの魔物を従え、各国の村々へ軍勢を送り込み、略奪や虐殺を繰り返しているらしい。
中には、住民たちが奴隷のように扱われている村もあるのだとか。
……まるで、ヴァイキングも真っ青な傍若無人ぶりである。
そんな魔王軍の中でも、特に危険視されているのが『十死怪』と呼ばれる十体の存在だ。
魔王の幹部に相当する連中らしく、魔王軍の侵略行為でも中心的な役割を担っているという。
こういう集団は、だいたい一人ひとりがとんでもなく強いに決まっている。
少なくとも、自分の知っている物語ではそうだ。
……いや、ここは物語の中じゃなくて、現実なんだけどな。
大人たちが頭を抱えるのも無理はない。
だが、人類もただやられているばかりではなかった。
魔王軍に対抗するため、人々は一人の特別な存在を見いだした。
その人物に与えられた呼び名こそ――『勇者』である。
そう。
この世界には、勇者も存在するのだ。
現在も勇者と呼ばれる人物が世界中を巡り、人々を助けているらしい。
その話題が上がるたび、大人たちが歓喜の声を上げているのを何度も耳にした。
勇者の存在は、それほどまでに人々の希望となっているのだろう。
……ただ、自分としては、少し複雑な気持ちにもなる。
勇者に選ばれる人は、きっと大変だ。
世界中の人々から期待を寄せられ、その命運を背負うことになるのだから。
子どもなら、勇者という存在に憧れるものなのかもしれない。
だが、前世で二十七年も生き、社会の厳しさをそれなりに味わってきた自分としては、憧れるというよりも同情の方が先に立つ。
だって、どう考えても割に合わない。
命を懸けて魔王軍と戦い、世界中の人々を救ったところで、それに見合うだけの見返りがあるとは限らないのだ。
ハイリスク・ローリターン。
少なくとも、今の自分にはそう思えてしまう。
それなら、各国の優秀な人材を集め、騎士団や冒険者、魔術師たちで協力して十死怪を一体ずつ倒していけばいいのではないだろうか。
勇者一人に頼るよりも、その方が効率的な気がする。
……まあ、そんな単純な話ではないのだろう。
現に、この世界では過去に何度も魔王軍との大規模な戦争が起きているらしい。
その中でも特に有名なのが、『魔界大戦』と呼ばれる戦いだ。
十死怪と数万もの魔物の軍勢が、一つの国を侵略しようとしたことが発端だったという。
それに対抗するため、人類側も各国から軍勢を集結させた。
勇者はもちろん、数多くの優秀な冒険者や騎士、魔術師たちも参戦したらしい。
兵力だけで見れば、人類側が優勢だったそうだ。
それでも、結果は決して楽観できるものではなかった。
多くの犠牲を払い、ようやく魔王軍を撤退させることができた。
それが精いっぱいだったという。
……数で勝っていても、簡単には勝てない相手ということか。
魔王軍の脅威が、少しだけ現実味を帯びてきた気がした。
勇者という存在が人々から期待される理由も、なんとなく分かったような気がする。
とはいえ、今の自分にできることは何もない。
何しろ、まだ生まれて三ヶ月の赤ん坊なのだから。
世界を救うどころか、自分の身体を自由に動かすことすらできない。
……まずは、首が据わるところからだな。
「さてと、そろそろサダメのミルクの時間かなー」
家事をひと通り終えた母が、ゆりかごで寝ていた自分を抱き上げた。
そして、慣れた手つきで自分を抱きかかえると、授乳のために胸元を整える。
……うん。
何度見ても、とんでもない美人である。
こんな美女のおっぱいを合法的に堪能できるとは、転生も悪くない。
最初はそんなふうに考えていた。
だが、実際にそのときが来てみると、不思議なことに興奮するようなことはなかった。
まあ、考えてみれば当然か。
今の自分は、身体も感覚も赤ん坊そのものなのだ。前世の記憶があるからといって、何もかもが前世と同じというわけではないらしい。
そんなわけで、自分は母に抱かれ、されるがままに授乳を受ける生活を送っていた。
……ただ、一つだけ問題がある。
(……ぶっちゃけ、ミルクはもう飽きた)
いや、贅沢な悩みなのは分かっている。
分かっているんだけどさ。
毎日毎日、同じものばかり飲んでいると、さすがに飽きるというものだ。
そろそろ別のものも口にしてみたい。
……まあ、そんな願いが叶うのは、もう少し先の話になりそうだけど。
――勇者が死ぬまで、残り9910日




