第1章ー1
岩倉運命、二十七歳。フリーター。独身、交際歴なし。
地元のスーパーで働く、ごくごく平凡な社会人。
そんな彼の人生は、一人の少年の身勝手な好奇心によって、あっけなく幕を閉じた。
そう。岩倉運命の人生は、そこで終わったのだ。
(……んん? なんか眩しいな)
ふと、意識が浮上する。
まぶたの向こうから差し込む光が気になり、自分は薄っすらと目を開いた。
見慣れない天井が、ぼんやりと視界に映る。
……は?
「ほらほら、お父さん! 目を開きましたよ!? 早く抱っこしてあげてください!」
「えっ、あっ、はい!? だ、抱っこって……どうやって持てばいいんでしたっけ!?」
「ふふっ、落ち着いてください、お父さん」
……なんだ?
目を覚ました途端、やけに騒がしくなったぞ。
というか、ここはどこだ?
見覚えのない天井に、聞き慣れない男女の声。病院……にしては、なんだか様子がおかしい。
もしかして、自分は助かったのか?
あのとき、刃物で刺されて倒れたはずだが……。
「あっ……あっ……」
声を出そうとした。
けれど、思うように声が出ない。
それどころか、身体の感覚まで妙だった。
視界がぐらりと揺れる。身体を動かそうとしても、思うように動かせない。手足の位置さえ、どこかおかしい気がする。
特に、下半身との距離感が妙に短い。
……いや、どういうことだ?
自分の身体なのに、自分のものではないような違和感がある。
まるで、身体そのものが別物になってしまったかのような――。
「よ、よーしよし! パ、パパですよー! よーしよし!」
「!?」
突然、視界いっぱいに見知らぬ男の顔が飛び込んできた。
近い!
近すぎるって!!
しかも、めちゃくちゃ笑顔なんですけど!?
いやいや、待て待て。いくらなんでも距離感がおかしいだろ! アラサーの男にそんな顔を近づけてくるなよ!?
……いや、そもそも誰だよ、この人!?
「おっ、おお、おおっと!? あ、あぶねえ……!」
「お父さん! 気をつけてくださいよ!? 赤ちゃんの首はまだ繊細なんですから!」
「すすす、すみません!!」
……赤ちゃん?
今、赤ちゃんって言ったか?
いや、聞き間違いだろう。だって自分は二十七歳の成人男性だぞ? 赤ちゃん扱いされるような年齢じゃない。
それなのに、身体が持ち上げられているような感覚がする。
首がぐらりと揺れ、視界が大きく傾いた。
(うおっ!? ちょっ、待っ……!)
頭がぐわんと揺さぶられる。
脳震盪を起こすかと思った。
いや、実際には起こしていないのかもしれないが、とにかく気分が悪い。そもそも、怪我人をこんな乱暴に動かしていいのか!?
……いや、だから怪我人っていうか、俺は今どういう状態なんだ!?
「……あなた。わたしにも見せてくれない?」
「あ、ああ、そうだな。よ、よーし、危ないからゆっくり渡すぞー……」
再び視界が動き出した。
ただでさえ状況の整理が追いついていないというのに、今度は別の場所へ移動させられているらしい。
頼むから、一度落ち着かせてくれ。
誰か、この状況を説明してくれ!
「あ、あー……!」
どうにか声を上げて訴えようとする。
しかし、出てくるのは意味をなさない声ばかり。言いたいことは山ほどあるのに、まともな言葉を発することすらできなかった。
……おかしい。
さっきから、何もかもがおかしいぞ。
「ほ、ほーら。こっちがママですよー」
(ママって……俺、そんな呼び方したことないんだけど……)
そんなことを考えているうちに、今度は女の方へと顔を向けられた。
いい加減、説明してほしい。
ここはどこなのか。なぜ知らない男女がいるのか。そして、どうして自分はこんなにも身体を自由に動かせないのか。
聞きたいことは山ほどある。
――あるはずだったのだが。
「……あ」
女の顔を見た瞬間、俺は思わず言葉を失った。
金色の髪。
透き通るような肌。
整った顔立ちに、柔らかく細められた瞳。
……美人だ。
いや、美人なんて言葉じゃ足りない。
二次元からそのまま飛び出してきたかのような、とんでもない美女が目の前にいた。
「うふふ。ようやく、あなたの顔を見ることができたわ。ママ、とっても嬉しい」
「あ、あー……」
思わず声が漏れた。
いや、仕方ないだろう。こんな美女が目の前にいたら、誰だって見とれるに決まっている。
……いや、待て。
二十七歳の男が、美女に見とれて声を漏らすってどうなんだ?
なんだか急に恥ずかしくなってきた。
顔が熱くなるような気さえする。
もっとも、今の自分に顔が赤くなっているかどうかを確認する術はないのだが。
……って、そうじゃない!
いまだに状況がまったく分かっていないんだぞ、俺は!
男の方も女の方も、まったく見覚えがない。しかも、二人とも日本人には見えない顔立ちをしている。
いや、そもそも、ここは本当に病院なのか?
周囲を見渡そうにも、思うように首を動かせない。
視界に入るのは、見知らぬ男女と、見慣れない部屋の一部だけ。
謎が増える一方だ。
「ああ、なんて愛らしいのかしら。顔もこんなに小さいし、手だってこんなに小さい」
(……んん?)
女はうっとりとした表情を浮かべながら、自分の顔を覗き込んでいた。
そんなに見つめられると、こっちまでドキドキしてしまうんですけど!?
……いや、だから、そうじゃなくて!
「ほら、こんなに小さな手……」
女が、自分の手をそっと握った。
その瞬間、自分は違和感の正体に気づいた。
……小さい。
自分の手が、異様に小さいのだ。
女の指を握ろうとしても、なんとか小指にしがみつくのが精いっぱい。手のひらも、指も、あまりにも小さすぎる。
成人男性の手じゃない。
どう考えても、おかしい。
(……まさか)
頭の中で、散らばっていたパズルのピースが一つずつはまっていく。
パパだのママだのと呼ばれている、見知らぬ男女。
自由に動かせない身体。
まともに言葉を発することすらできない喉。
そして、目の前にいる二人が口にした、赤ちゃんという言葉。
……いやいや、まさか。
そんなことがあるはずがない。
だって自分は、確かに――。
「ねえ、あなた。名前はもう決めたの?」
「うん? あ、ああ……。子どもに名前をつけるなんて初めてだからな。これで本当にいいのか、少し不安で……」
「ふふっ。そんなに真剣に悩んで決めたのなら、誰も文句なんて言わないわ」
男女の会話が、耳に入ってくる。
子どもの名前。
初めての子ども。
真剣に悩んで決めた名前。
――そうか。
ようやく、すべてを理解した。
自分は、あのとき確かに死んだのだ。
見知らぬ少年に刃物で刺され、何もできないまま命を奪われた。
あれは夢でも、勘違いでもない。
そして今、自分は――。
「この子の名前はサダメ。サダメ・レールステンだ!」
男が、誇らしげに宣言した。
(……サダメ・レールステン?)
聞き慣れない名前。
けれど、それが今の自分に与えられた名前なのだと、不思議と理解できた。
(……そうか)
岩倉運命としての人生は、終わった。
そして今、自分は新たな人生を歩み始めたのだ。
見知らぬ世界で。
見知らぬ両親のもとで。
赤ん坊として。
(俺……異世界に転生したんだ!)
こうして自分は、新たな名前――サダメ・レールステンとして、二度目の生を受けたのだった。
――勇者が死ぬまで、残り10000日




