プロローグ
身体が重い。
まるで、強烈な引力に引きずり込まれているかのようだった。背中が地面に貼り付いてしまったように、身体がまったく動かない。指先一つ動かすことすらできず、ただ重力に押し潰されるような感覚だけが全身を支配していた。
ここまで自分の身体が言うことを聞かないのは初めてだ。
――それも、こんな町中で。
……いや、待て。
そもそも、なんで俺は町中で這いつくばっているんだ?
背中越しに伝わるアスファルトの硬さ。頬を撫でる夜風。遠くから聞こえる、車の走行音。
それらをぼんやりと感じながら、俺は意識が途切れる直前の出来事を思い返した。
「はー、今日もつっかれたー……」
岩倉運命、二十七歳。
フリーター。独身。彼女なし。
地元で生まれ育ち、現在は実家を離れて一人暮らしをしている。理由は単純。一人暮らしというものに、ちょっとした憧れがあったからだ。
とはいえ、暮らしぶりは至って平凡。地元のスーパーで働き、給料をもらい、家賃や生活費を払い、残った金で好きなものを買う。
そんな、ごくありふれた毎日を送っていた。
その日も、いつもと変わらず仕事を終え、帰路についていた。
帰り道の過ごし方も決まっている。イヤホンで音楽を聴きながら、スマホでSNSを眺める。それが俺の日課だった。
家と職場は、それほど離れていない。
少しくらい歩きスマホをしていても問題ないだろう。
――そんな、根拠のない油断があった。
「ん?」
ふと、スマホから視線を上げた。
その瞬間、正面からこちらに向かってくる人影が目に入った。
グレーのパーカーに、深く被ったフード。街灯の少ない夜道では顔が影に隠れ、性別も年齢も判然としない。
ただ、体格は小柄だった。
肩幅は意外にしっかりしているものの、見た目だけなら十代半ばから後半くらいの子どもだろうか。
随分と急いでいるらしい。早足で、まっすぐこちらへ向かってくる。
一瞬、不審に思った。
けれど、すぐに考えるのをやめた。
急いでいるだけだろう。こっちが少し道を譲れば、何事もなくすれ違えるはずだ。
そう考え、俺は道の端へと身体をずらした。
――しかし。
そいつは、俺が避けた方向へと進路を変えた。
偶然かと思い、反対側へ動く。
すると、そいつもまた、こちらへ向かってきた。
そこでようやく、違和感を覚えた。
こいつ……俺を狙っているのか?
そう思った直後だった。
街灯の光を反射して、そいつの手元がきらりと光った。
握られていたのは、刃物。
……は?
なんで、俺が?
刃物を認識した瞬間、全身が凍りついた。
逃げなければ。
そう思った。思ったはずなのに、足が動かない。
頭の中が真っ白になり、目の前の光景を理解することすら難しくなっていた。
心当たりなんて、一つもない。
誰かに恨まれるようなことをした覚えはなかった。そもそも、悲しいくらいに交友関係が狭い。
職場の同僚が数人。両親と親戚。それから、高校時代の友人が何人か。
卒業してからは、ほとんど連絡すら取っていない。
そんな俺が、どうして。
どうして、刃物なんか向けられなきゃならないんだ。
「ゔっ……!?」
考えがまとまるよりも早く、そいつは俺の懐へと踏み込んできた。
そして――刃物が、胸に突き立った。
「あっ……がっ……ぁぁ……!?」
熱い。
胸の奥が、焼けるように熱い。
何が起きたのか理解する間もなく、激痛が全身を駆け巡った。
呼吸ができない。
吸おうとしても、空気が肺に入ってこない。喉が引きつり、声にならない音だけが漏れた。
足から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
背中を打ちつけた衝撃さえ、胸の痛みにかき消されていた。
どくん、どくん、と胸の奥で何かが脈打つ。
それに合わせて、熱いものが身体の中へと広がっていく。
左肺か。それとも心臓か。
詳しいことなんて分からない。けれど、素人の俺にだって理解できた。
これは、まずい。
冗談でも何でもない。
このままじゃ、本当に死ぬ。
「残念だったね、おじさん」
「……ああっ……?」
死を覚悟しかけた、そのときだった。
頭上から、場違いなほど軽い声が降ってきた。
刃物を突き立てた張本人の声だ。
どうにか顔を上げると、深く被られたフードの奥から、そいつの顔がぼんやりと見えた。
幼い顔立ちだった。
大きな目に、まだあどけなさの残る輪郭。どこにでもいそうな、子犬のような顔をした少年だ。
十代前半といったところだろうか。
当然、見覚えなんてない。
それなのに、少年はまるで旧知の仲にでも話しかけるような気軽さで、俺を見下ろしていた。
「おじさん、独身でしょ? ほら、いつも一人でいるじゃん。友達もいなさそうだしさ。だからね、すごく都合がよかったんだよ」
……は?
何を言っているんだ、こいつは。
いつも一人でいる?
友達がいなさそう?
まるで、以前から俺のことを知っているかのような口ぶりだった。
近所に住んでいる子どもなのか。それとも、どこかで俺を見かけて、勝手に目をつけていたのか。
監視されていた?
金目当ての強盗か?
いや、だったら、どうしてこんなことを……。
「な……なん……で……」
必死に声を絞り出す。
助けを呼びたい。誰かに気づいてほしい。
けれど、そんな余裕はなかった。
息をするだけで精いっぱいだった。
それでも、せめて理由だけは知りたかった。
俺は、何をした?
知らないうちに、こいつに恨まれるようなことでもしたのか?
「んん?」
少年は不思議そうに首を傾げた。
「なんで刺されたのか知りたいの? うーん、そうだなぁ……」
まるで、今日の夕飯でも考えているかのような気軽さだった。
少しだけ視線を上へ向け、考え込む素振りを見せる。
そして、あっけらかんと言い放った。
「んー、特にないかな」
「……はっ?」
特に、ない?
「強いて言うなら……殺しやすそうだったから?」
「ころ……しやす……い……?」
言葉の意味が、頭の中でうまく形にならなかった。
殺しやすそうだったから。
ただ、それだけの理由で?
「おじさん、ぼっちだし。この辺って、夜の九時過ぎになると車も歩行者も全然いないじゃん? だったら狙うなら、おじさんかなーって」
少年は、悪びれる様子もなく笑った。
まるで、道端で拾った石ころでも見せびらかすような顔だった。
頭が追いつかない。
殺しやすいから殺す?
そんな理由で、人を殺すのか?
いや、そもそも理由なんて必要ないのかもしれない。
目の前にいるこいつは、きっと俺たちとは根本的に違う。
人を刺しておきながら、笑っている。
相手が苦しんでいるのを見ても、何とも思っていない。
それどころか、まるで楽しい遊びでもしているかのように、無邪気な顔を浮かべている。
――こいつは、普通じゃない。
「人殺しって興味あってさ。今日、初めてやってみたんだけど……なんか思ってたのと違うんだよねぇ」
少年は、勝手に話を続けた。
俺が死にかけていることなど、まるで気に留めていない。
「包丁だとね、手に変な感触があるの。牛肉を刺したときとも違うんだよね。そこはちょっとガッカリだったかも」
……ふざけるな。
「でも、おじさんが苦しんでるのは……面白いね」
心の中で、何かが煮えたぎった。
痛みと恐怖で、まともに考えることすらできない。
それでも、怒りだけははっきりと感じられた。
こいつは、人の命を何だと思っている?
ゲームの中の敵キャラクターとでも思っているのか?
人を刺せば血が流れる。痛みだってある。苦しみだってする。
そんな当たり前のことを、知らないわけがない。
分かっていて、やっているのだ。
罪悪感なんて、欠片もない。
目の前の少年には、人を殺すことへの恐れも、ためらいも、後悔もないのだ。
「やっぱ銃とか爆弾のほうが、触らなくていいし気持ちいいのかな? でも、この国だと入手難易度えぐいし……どうしよっかなー」
……おい。
こいつ、今、何て言った?
次の殺人の話をしているのか?
俺を殺したばかりだというのに、もう次のことを考えている。
それも、まるで新しいゲームを買おうか迷っているかのような口調で。
やっていることは、紛れもない犯罪だ。
なのに、こいつの表情には、悪いことをしているという自覚すら見当たらなかった。
ふざけるな。
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!
こんなやつに。
こんな、頭のおかしいガキの好奇心を満たすためだけに。
俺は、死ななきゃならないのか?
まだ二十七歳だぞ。
特別な人生だったとは言わない。胸を張れるような功績だってない。
けれど、それなりに働いて、それなりに生活して、明日もまた同じような一日を迎えるはずだった。
いつかは恋人だって欲しかったし、余裕ができたら、もっと広い部屋に引っ越したかった。
そんな、ささやかな未来さえ。
こいつは、何のためらいもなく奪っていく。
「ゔ……はっ……はぁ……っ」
息が、続かない。
視界の端から、じわじわと白い靄が広がっていく。
身体の感覚が薄れていく。痛みさえも、少しずつ遠のいていく。
まずい。
このままでは、本当に終わる。
せめて、こいつだけは捕まってほしい。
俺の命を奪ったことを、罪として裁かれてほしい。
これ以上、誰かが同じ目に遭わないように。
そんな願いすら、声にすることはできなかった。
「おじさんとは、もうお別れみたいだね」
少年が、俺の顔を覗き込んだ。
その表情には、最後まで何の感情も浮かんでいなかった。
いや、違う。
ほんの少しだけ、残念そうにも見えた。
まるで、遊び相手が帰ってしまうことを惜しむ子どものように。
「今度は、僕みたいなのに会いませんように」
そう言い残し、少年は軽い足取りで去っていった。
自分で殺しておいて、よくもそんなことが言えたものだ。
最後まで、俺を人間として見ていなかったのだろう。
ただの実験台。
ただの遊び道具。
たまたま目についた、殺しやすそうな男。
それが、少年にとっての俺だった。
「ぢ……ぐしょぅ……」
悔しい。
悔しくて、たまらない。
もっと生きたかった。
こんな理不尽な理由で、死にたくなんかなかった。
けれど、もう何もできない。
声はかすれ、指先一つ動かせず、視界は闇に覆われていく。
それが、岩倉運命としての最後の言葉だった。
誰に届くわけでもない、小さな、小さな呪詛。
もし、来世というものがあるのなら。
どうか、今度こそ。
こんな狂ったやつに殺される人生だけは、二度とご免だ。
そう願いながら、俺の意識はゆっくりと闇の底へ沈んでいった。
『本日早朝、〇〇県〇〇町の歩道で、二人の遺体が発見されました。警察によりますと、遺体は二十代の男性と、十代の少年と見られています。少年は刃物を握った状態で倒れており、警察は二人が何らかの事件に巻き込まれた可能性もあるとみて、詳しい状況を調べています』
――勇者が死ぬまで、残り10000日




