第2章ー5
「ふう……これで、最後っと」
夕方に差しかかる頃、ようやく最後の木箱を運び終えた。
これで今日の仕事は終わりだ。
あとは教会へ戻るだけ。
……腹、減ったな。
昨日の晩から、何も口にしていない。
昼過ぎには空腹を訴えていた腹の虫も、今ではずっと騒ぎ続けている。
早く、何か食べたい。
もっとも、ここ最近はまともな食事なんて存在しないのだが。
魔造種とは別に育てているイモと、村中からかき集めたわずかな食料。それらを何とかやりくりして、どうにか生き延びている。
だが、日が経つにつれて食料は腐り、食べられるものは減っていく。
今では、口にできるのはイモと水くらいだ。
このままでは、いつ栄養失調で倒れてもおかしくない。
それでも――食べないよりはマシだ。
たとえわずかでも、何かを腹に入れなければ生きていけない。
生きるために食べる。
明日を迎えるために、今日を耐える。
そんな当たり前のことさえ、今の自分たちには簡単ではなかった。
それでも、希望を捨てるわけにはいかない。
きっと助けは来る。
いつか、この地獄から抜け出せる日が来る。
そう信じていなければ、心が折れてしまいそうだった。
そして……母のことも。
母は今、どこで何をしているのだろう。
無事なのだろうか。
ちゃんと食事を与えられているのだろうか。
それとも――。
「……」
考えかけて、頭を振る。
今は、悪い想像をするのはやめよう。
母はきっと生きている。
そう信じて、今日まで耐えてきたのだから。
――ドサッ。
「……ん?」
不意に、鈍い物音が響いた。
足を止め、音のした方へ視線を向ける。
そこにあったのは、村の女性たちが隔離されている建物の一つだった。
あの建物からは、今でも時折、うめき声が聞こえてくる。
そのたびに、不快感と、どうしようもない苛立ちが胸の奥に込み上げてきた。
いったい、どんな拷問を受けているのか。
どんな実験をされているのか。
考えたくもない。
助けたい。
今すぐにでも、あそこにいる人たちを助け出したい。
だが、今の自分には何もできなかった。
無力だった。
どれだけ力をつけようと、どれだけ知識を蓄えようと、目の前で苦しんでいる人たちを救えない。
父なら――。
父なら、きっと何とかしてくれただろう。
そんな考えが、頭をよぎる。
けれど、もう父はいない。
そして母も、どこかで同じように苦しんでいるはずだった。
そう思うと、自分が受けている仕打ちなど、まだマシなのではないかとさえ思えてしまう。
……いや、そんなことはない。
自分だって、毎日必死に耐えている。
痛みも、空腹も、恐怖も、決して平気なわけじゃない。
それでも。
ここで死ぬわけにはいかなかった。
いつか助け出されたとき、母の隣に立てるように。
もう一度、母に会えたとき、胸を張って顔を見られるように。
だから、今日も生き延びる。
そう自分に言い聞かせた、そのときだった。
「はあ、こいつも駄目だったか。結構イケそうだと思ったんだがな」
「これで駄目なら、この村もそろそろ潮時かもな」
……魔物の声?
気づけば、自分は建物の陰に身を潜めていた。
声のした方をそっと覗き込むと、二匹の魔物が建物の裏手に立っている。
その足元には、村のゴミ捨て場があった。
大きな木製のゴミ箱が一つ。
魔物たちは、何かをそこへ放り込んだばかりのようだった。
……今の会話、どういう意味だ?
『こいつも駄目だった』。
『この村もそろそろ潮時』。
まるで、何かを試していたかのような口ぶりだった。
そして、それが失敗に終わった、と。
頭の中に、嫌な考えが浮かび上がる。
――実験の失敗作。
そんな言葉が、脳裏をよぎった。
女性たちが隔離されている建物。
魔造種を育てさせられる自分たち。
そして、魔物たちの口から出た意味深な言葉。
それぞれが、何かしらの形で繋がっているのだろうか。
そもそも、奴らは何のために村を襲ったのか。
なぜ女性たちを隔離し、魔造種を生産させているのか。
知りたいことは山ほどあった。
だが、ここで動くのは危険だ。
ゴミ箱の中身は、こちらからでは見えない。
確かめようにも、今近づけば魔物たちに気づかれる可能性がある。
自分は息を殺し、その場から動かずにいた。
やがて、魔物たちは何事もなかったかのように建物の中へ戻っていった。
――数分後。
周囲を窺っても、ほかに動くものは見当たらない。
「……今のうちに」
小さく呟き、足音を立てないようにゴミ箱へと向かう。
いつ、誰が現れるかわからない。
中身を確認したら、すぐに立ち去る。
それだけだ。
「……ふう……」
ゴミ箱の前で立ち止まり、ゆっくりと息を吸う。
周囲をもう一度確認する。
誰もいない。
……なぜ、ここまでして中身を確かめたいのだろう。
自分でも、はっきりとはわからなかった。
単なる好奇心かもしれない。
見てはいけないものを見たいという、背徳的な衝動かもしれない。
それでも、気になって仕方がなかった。
奴らの目的を知りたい。
村を襲った理由。
女性たちを隔離している理由。
魔造種を育てさせている理由。
もしかしたら、そこに何か共通点があるのかもしれない。
ほんのわずかでもいい。
この地獄を覆すための手がかりが欲しかった。
何も知らないまま、ただ耐え続けるのは嫌だった。
「……」
恐る恐る、木製の蓋に手をかける。
重い。
わずかに震える指先に力を込め、ゆっくりと持ち上げた。
――自分たちが助かる糸口が、そこにあるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら。
「ッッッ――!!?」
息が、止まった。
蓋の下にあったのは、無造作に捨てられた裸の女性たちの死体だった。
皮膚は腐敗し、元の色を失っている。
見開かれた目は、何も映していない。
口元や下腹部には、乾ききっていない血の跡が残っていた。
鼻を突く死臭。
その奥に混じる、鉄錆にも似た血の匂い。
蠅が群がり、腐敗した身体には蛆が蠢いている。
「う゛っ……!」
喉の奥から、押し殺しきれなかった声が漏れた。
強烈な悪臭と、目の前に広がる光景。
その両方が一度に押し寄せ、頭の中をぐちゃぐちゃにかき乱す。
胃が激しくせり上がる。
こめかみが脈打ち、頭が割れるように痛んだ。
「……っ、……っ、……っ……」
息がうまく吸えない。
呼吸は浅くなり、視界が揺れる。
目の奥が熱くなり、涙が滲んだ。
逃げろ。
頭の中で、本能が叫んでいる。
今すぐ蓋を閉めろ。
ここから離れろ。
何も見なかったことにして、教会へ戻れ。
そうするべきだと、わかっていた。
それなのに――。
目を逸らせなかった。
逸らしてしまえば、ここにあるものを見なかったことにしてしまう気がした。
この人たちが、確かに生きていたこと。
誰かにとって大切な存在だったかもしれないこと。
そして、何者かの都合で命を奪われ、こんな場所に捨てられたこと。
それらすべてを、自分までなかったことにしてしまうような気がした。
だから、目を逸らせなかった。
震える身体を押さえつけ、必死に呼吸を整えながら、ゴミ箱の中を見つめる。
そして――。
死体の奥に、見覚えのある顔があった。
腐敗によって変色した肌。
生気を失い、虚ろに開かれた瞳。
それでも、その顔立ちには、確かに見覚えがあった。
何度も自分を抱きしめてくれた。
何度も優しく名前を呼んでくれた。
何度も、自分のことを大切にしてくれた。
忘れるはずがない。
忘れられるはずがない。
――母によく似た顔をした、一体の死体が。
そこに、あった。




