第2章ー2
翡翠色の髪を持つ少女の名は、ミオ・チヤドール。
年齢は自分と同じ六歳。この村で唯一の同年代だ。
村が襲撃される前は、何度か顔を合わせて話したことがある。とはいえ、特別仲が良かったわけではない。たまに言葉を交わす程度の、ごく普通の知り合いだった。
それなのに、自分たちが一緒に話している姿を見るたび、父さんはなぜかニヤニヤしていた。
こちとら中身は二十七歳のほぼおっさんだ。十歳にも満たない子供に妙な情を抱くはずがない。
きっと、息子の将来を勝手に想像して、期待に胸を膨らませていただけなのだろう。
……それにしたって、いくら何でも気が早すぎると思うが。
「ミオ、悪いがサダメの怪我を治療してやってくれ」
「うん、わかった!」
ラエルに呼ばれたミオは、迷うことなく頷いた。
「ッ!?」
……いや、ちょっと待ってくれ。
自分は別に、そこまでしてもらわなくても――。
「じゃあサダメ、怪我してるところを見せて!」
「えっ、あっ、う、うん……」
ミオは自分の前まで歩み寄ると、怪我の具合を確かめるため、服を脱ぐように手振りで促してきた。
……いやいや、ちょっと待て。
今、自分たちの周囲には他の子供たちもいる。
こんな大勢の前で上半身を晒すのは、普通に恥ずかしい。しかも、ここは暖房器具も満足にない廃教会だ。服を脱げば当然、寒い。
「ほら、早く見せて!」
「ちょ、ちょっと待てって! 自分で脱ぐから!」
自分が上着に手を掛けるのをためらっていると、しびれを切らしたミオが、こちらの上着を掴んだ。
「えっ、おい、ミオ!?」
「じっとしてて!」
「いや、だから自分で――」
有無を言わさぬ勢いで、上着を引っ張られる。
……女の子に服を脱がされる方が、よほど精神的なダメージが大きいんだが!?
「い゛っ!?」
不意に横腹へ鋭い痛みが走った。
思わず声が漏れ、身体がびくりと跳ねる。
「ッ!? サダメ、お前……」
その瞬間、ラエルたちの表情が凍りついた。
露わになった自分の上半身を見て、誰もが言葉を失っている。
……まあ、六歳児にしては腹筋が割れていることに驚いたのかもしれない。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
身体のあちこちに、無数の打撲痕が残っていた。
棍棒で打ち据えられた背中には、青黒く変色した痣。擦りむいた皮膚には乾いた血がこびりつき、切り傷もいくつも残っている。
大人が見ても、思わず顔を背けたくなるような有様だった。
……寒いとか、恥ずかしいとか、そんなことを気にしている場合じゃなかったな。
改めて自分の身体を見せつけられ、そんな当たり前のことに気づかされた。
「……ひどい……」
ミオが、かすれた声で呟いた。
その表情からは、先ほどまでの明るさが消えている。
彼女の実家であるチヤドール家は、この村で薬屋を営んでいた。
ただの薬屋ではない。両親は薬学や医学に精通しており、村人たちにとっては医者のような存在でもあった。
自分の母さんも治癒魔法を使えたが、治せるのは軽い火傷や擦り傷などが中心だった。病気の診断や薬の処方となれば、チヤドール家の専門分野だ。
ミオ自身も、幼い頃から両親の手伝いをしていたらしい。
そんな彼女が絶句している。
平和だった頃のドレーカで、ここまでの怪我を負った子供など、まず見かけることはなかっただろう。
ましてや、怪我を負ったまま何日も放置されるなんて、普通ならあり得ない。
……もっとも、今の自分たちにとっては、それが当たり前になりつつあるのだが。
「……治療してみるから、じっとしててね」
ミオは小さく息を吐き、覚悟を決めたように自分の前へしゃがみ込んだ。
「お、おう……頼む」
「うん!」
彼女は自分の胸元にそっと手を当て、静かに詠唱を始めた。
「聖なる風の精よ、癒しの力をお恵みください。【小さき癒しの温風】!」
直後、柔らかな風が自分の身体を包み込んだ。
温かな空気が肌を撫で、冷え切っていた身体の奥へと染み渡っていく。
不思議なことに、その風は周囲にはほとんど広がらず、自分の身体だけを優しく包んでいた。
……あったけぇ。
正直、自分で起こした焚き火よりも暖かい。
少し悔しい。いや、かなり悔しい。
……いや、今はそんなことを考えている場合じゃないだろ。
この世界の魔法は、大きく分けて二つの系統に分類される。
一つは、炎や風、水、雷といった自然現象を操る自然魔法。
そしてもう一つが、治癒や幻惑、身体強化など、自然現象の操作とは異なる効果を発揮する特殊魔法だ。
通常、人間が扱えるのはどちらか一方の系統だけ。
魔力の性質そのものが異なるため、二つを同時に扱うことはできない。それが、この世界における常識だった。
だが、ミオは違う。
彼女は風を操る自然魔法と、傷を癒やす特殊魔法。その両方を扱うことができる。
こうした例外的な性質を持つ者は、【特異体質】と呼ばれるらしい。
同じ体質を持つ人間を探すのは、砂漠の真ん中で一本の針を探すようなもの。
それほどまでに珍しい存在なのだ。
もっとも、本人は自分の才能を特別誇っている様子もなく、今はただ、目の前の怪我を治すことに集中していた。
「……はぁ、はぁ……」
しばらくすると、ミオの呼吸が荒くなってきた。
額には汗が浮かび、自分の胸元に添えられた手も、わずかに震えている。
その一方で、自分の身体には確かな変化が現れていた。
小さな擦り傷が、少しずつ塞がっていく。
出血していた傷口も、ゆっくりと血が止まり始めていた。
ただし、深い傷はそう簡単には治らないらしい。
痛みは和らいでいるものの、完全に消えたわけではなかった。
……それでも、十分すぎるほどありがたい。
だが、それ以上に気になることがあった。
治療を受けている自分よりも、治療しているミオの方が明らかにつらそうなのだ。
このまま続けさせれば、彼女の方が倒れてしまうかもしれない。
「あ、ありがとう、ミオ。もう大丈夫だよ」
「えっ? 何言ってるの!? まだ傷が残ってるじゃない!」
「いや、でも、かなり楽になったからさ」
「だけど……!」
「本当に大丈夫だって」
自分はできるだけ穏やかな声で答えた。
実際、治療のおかげで痛みはかなり軽減している。身体も温まったし、今すぐどうにかしなければならないような状態ではない。
それに――。
「どうせ明日になれば、また殴られるんだ。傷跡まで全部治してもらわなくてもいいよ」
「…………」
ミオの表情が、ぴたりと止まった。
……あれ?
何か、まずいことを言っただろうか。
いや、別に間違ったことは言っていないはずだ。
明日になれば、また同じように魔物たちから暴力を振るわれる。
だったら、今ここで彼女に無理をさせる必要はない。
ミオの体力を削ってまで、完全に傷を治してもらうわけにはいかなかった。
「ほら、今日はもう飯を食って寝よう。明日も早いだろ?」
そう言いながら、自分は上着を着直そうとした。
その瞬間――。
バチンッ!!
「ん゛ッ!?」
腹部に、鋭い衝撃が叩き込まれた。
「ぐっ……!?」
何が起きたのか理解するより先に、自分はその場で身体を丸めていた。
痛い。
いや、痛いなんてものじゃない。
治りきっていない腹部に響く衝撃が、全身を駆け巡る。
視界が白く染まり、呼吸が一瞬止まった。
……な、何だ!?
いったい何が起きた!?
「……サダメの、バカ」
聞こえてきたのは、今にも泣き出しそうなミオの声だった。
……あ。
そういえば、さっきまで痛みが和らいでいたのは、治癒魔法のおかげだった。
治療が完全に終わったわけではない。
つまり、自分の腹はまだ、まともに衝撃を受ければ悲鳴を上げる状態だったのだ。
それを忘れて、油断した。
……いや、そもそも六歳の女の子に腹を叩かれるなんて、誰が想像するんだよ!?
そんな理不尽な言い訳が頭をよぎったが、もちろん口には出せなかった。
ミオの表情を見れば、何を言うべきかくらいは分かる。
彼女は怒っている。
自分が自分の怪我を軽く扱ったことに。
彼女の心配を、無駄にしようとしたことに。
……本当に、悪いことをした。
そう思ったのだが――。
「……っ、寒い」
上着を脱いだままだったことを、今さらながら思い出した。
治療の温風が消えた教会の中は、相変わらず冷え切っている。
腹の痛みと、身を切るような寒さ。
どうやら今夜も、安らかに眠るのは難しそうだった。




