第2章ー1
魔物の襲撃を受けてから、約一年が経った。
かつては小さくとも、人々の笑い声が絶えない温かな村だったドレーカ。
しかし、今ではその面影すら残っていない。
崩れ落ちた家屋。朽ち果てた柵。ひび割れた石畳を覆い尽くす雑草。かつて人々が暮らしていた場所は、もはや廃村と呼ぶことすら生ぬるい、巨大な墓場と化していた。
空気は澱み、辺りは常に薄暗い。
昼なのか夜なのか、その区別すら曖昧になるほど、村には光がなかった。頭上に太陽が昇っているのかどうかさえ、疑いたくなる。
その原因は、村全体を覆い尽くしている魔障結界だ。
外の景色を窺うことはおろか、結界の向こう側に何があるのかさえ分からない。まるで世界そのものから切り離されてしまったかのようだった。
建物の壁には苔が広がり、金属部分は錆びついている。道という道には雑草が伸び放題で、かつて誰かが暮らしていた痕跡さえ、少しずつ自然に呑み込まれつつあった。
当然だ。
もう、この村を手入れする者などいないのだから。
村の男たちは、老人も含めて皆殺しにされた。
女性たちはいくつかの建物に隔離され、夜になると、呻き声や悲鳴が村中に響き渡る。
……何をされているのか、自分は知らない。
知りたくもなかった。
ただ、彼女たちが酷い目に遭わされていることだけは、嫌というほど理解していた。
――母も、あの中にいる。
そう考えるたび、胸の奥を握り潰されるような感覚に襲われる。
助けに行きたい。
今すぐにでも、あの場所から母を連れ出したい。
けれど、自分には何もできなかった。
母のいる場所へ近づくことすら許されず、ただ遠くから、時折聞こえてくる声に耳を塞ぐことしかできない。
……悔しかった。
何もできない自分が、どうしようもなく情けなかった。
そして、子供である自分たちは――。
「おい! 何サボってやがんだ!? クソが!!」
「ぐっ!?」
背中に強烈な衝撃が走った。
直後、焼けつくような痛みが全身を駆け巡る。
振り返る間もなく、自分は地面に膝をついていた。
「ううっ……!」
「下等な人間風情が! さっさと起きろってんだ!」
魔物が振り下ろした棍棒が、再び背中を打ち据える。
歯を食いしばり、どうにか立ち上がろうとした。
だが、その瞬間――。
「おらよっ!」
「ぐぼっ!?」
腹部に蹴りが叩き込まれ、身体がくの字に折れ曲がる。
息が詰まり、胃の中のものが逆流しそうになった。
自分はそのまま地面に転がり、咳き込みながら必死に呼吸を整えた。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
「ケハハハハ! おいおい、蹴ったら起き上がれなくなっちまったじゃねえか!」
「起きねえこいつが悪いんだろ! 自業自得だ、ヒハハハハ!」
魔物たちは、苦しむ自分を見て腹を抱えて笑っていた。
そこに罪悪感など微塵もない。
彼らにとって、自分たち人間は同じ生き物ですらないのだろう。
ただの奴隷。
ただの玩具。
壊れるまで痛めつけ、飽きれば捨てる。それだけの存在だった。
「ほら、いつまで寝てやがる! さっさと作業に戻れ!」
「ぶっ!?」
再び腹を蹴られた。
身体が跳ね、視界が大きく揺れる。
それでも、自分は起き上がろうとした。
起きなければ殴られる。
起き上がれば、また殴られる。
どちらを選んでも、待っているのは痛みだけだった。
それでも、動かなければならない。
逆らえば、今度こそ殺されるかもしれないから。
魔物は人間よりも遥かに力が強い。
彼らにとっては軽い一撃でも、自分たちにとっては致命傷になりかねない。
実際、これまでにも何人もの子供が暴行を受けていた。
殴られただけで血を吐き、そのまま動かなくなった子もいた。
昨日まで一緒に作業をしていた子が、翌日には姿を消していることだってあった。
その理由を、自分たちは誰にも尋ねられなかった。
だから自分は――耐えた。
幸いにも、自分は幼い頃から父さんに鍛えられていた。
魔力による身体強化も、ある程度なら使える。
そのおかげで、他の子供たちなら耐えられないような暴力にも、どうにか耐え続けることができていた。
……皮肉な話だ。
かつて家族を守るために鍛えた身体が、今では魔物たちの鬱憤を晴らすための道具になっている。
いつの間にか、自分は魔物たちの間で『サンドバッグ役』として扱われるようになっていた。
自分を殴っている間、彼らは他の子供たちへの暴力を控えることが多かったからだ。
自分が耐えれば、他の子たちは殴られずに済む。
それだけが、唯一の救いだった。
……もちろん、自分だって痛い。
殴られるたびに身体の奥まで響く衝撃も、蹴られるたびに呼吸ができなくなる苦しさも、決して慣れるものではない。
何より、いつまでこんな生活が続くのか分からないことが、何よりも恐ろしかった。
――いつまで、耐えればいい?
――このままでは、いつか本当に壊れてしまうんじゃないか?
そんな不安が、毎日のように頭をよぎる。
それでも自分は、弱音を吐くことができなかった。
自分が折れれば、次は誰かが犠牲になるかもしれない。
だから、耐えるしかなかった。
いつか、この状況を終わらせるために。
いつか、皆を守れるようになるために。
そして、いつか――母を助け出すために。
* * *
夜。
その日の作業を終えた自分たちは、古びた教会へと押し込まれた。
かつては村人たちが集まり、祈りを捧げていた場所。
今では壁の一部が崩れ、祭壇も荒れ果て、自分たち子供の寝床として使われている。
割れた窓からは冷たい風が吹き込み、床には埃が積もっていた。
毛布も布団もない。
身を横たえたところで、外で眠るのと大差ない寒さだった。
「サダメ、すまない。いつもの火を頼む」
最年長のラエルが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「分かってる。今つけるよ」
自分は頷き、周囲に散らばっていた小枝を一か所に集めた。
風の魔法で枝を寄せ、火の魔法で小さな炎を灯す。
それだけで、簡素な焚き火が出来上がった。
パチパチと、乾いた枝が燃える音が響く。
炎の揺らめきが、薄暗い教会の中をわずかに照らした。
「はぁ……あったけぇ……」
誰かが、安堵の息を漏らす。
自分たちは焚き火を囲むように座り、少しでも暖を取ろうと身を寄せ合った。
決して十分な温もりではない。
それでも、何もないよりはずっとましだった。
「サダメ。怪我は大丈夫か?」
ラエルが心配そうに尋ねてくる。
自分が魔物たちの暴力を一身に受けていることは、皆も知っていた。
「うん。もう慣れたから、大丈夫だよ」
自分は笑って答えた。
……嘘だった。
痛みに慣れたわけじゃない。
本当は、もう嫌だった。
殴られるのも、蹴られるのも、何もできずに耐えるだけの日々も。
全部、今すぐにでも投げ出してしまいたかった。
けれど、そんな本音を口にするわけにはいかなかった。
自分が弱音を吐けば、皆まで不安にさせてしまう。
自分が耐えられなくなれば、他の誰かが代わりに犠牲になるかもしれない。
だから自分は、笑った。
平気なふりをして、痛みも恐怖も胸の奥へ押し込めた。
せめて、皆の前では。
――このままじゃ、駄目だ。
焚き火を見つめながら、自分は改めて思った。
いつまでも耐えているだけでは、何も変わらない。
この生活を終わらせる方法を見つけなければ。
母を助けるためにも。
皆を守るためにも。
……だが、どうすればいい?
魔物たちは強い。
自分一人で立ち向かったところで、勝てる保証などどこにもない。
それどころか、下手に抵抗すれば、皆に危険が及ぶ可能性だってある。
焦る気持ちばかりが募り、答えは一向に見つからなかった。
そんな時――。
「ミオー! ちょっと来てくれ!」
ラエルが教会の奥へ向かって声を張り上げた。
「はーい! 今行く!」
返事とともに、小さな足音が近づいてくる。
やがて、両手に食料を抱えた少女が、こちらへ駆け寄ってきた。




