第1章ーおまけ
「おおお、俺と、けっ、けっ、結婚してください!!」
人生で初めての告白――いや、プロポーズだった。
緊張のあまり、言葉は見事に噛みまくり、肝心の相手の顔すらまともに見られない。頭の中では何度も練習していたはずなのに、いざ本番となると、たった一言すら満足に口にできなかった。
情けない。
恥ずかしい。
今すぐ穴があったら入りたい。
そんな思いでいっぱいになりながら、俺は彼女の返事を待った。
そして――。
「……はい」
返ってきたのは、拍子抜けするほどあっさりとした返事だった。
しかし、その一言が耳に届いた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。
彼女――ステラは、こんな情けない俺のプロポーズを受け入れてくれたのだ。
嬉しかった。
嬉しくて、嬉しくて、どうしようもなかった。
……もっとも、感動のあまり何か気の利いた言葉を返せたかといえば、そんなことはない。
結局その場でも、俺はしばらくまともに口を開けなかったのだった。
そして、プロポーズから数日後。
「はっはっはっ! あのイノスがとうとう結婚かよ!」
「いやぁ、驚いたな。まさかお前が一番乗りとは」
「……お前ら、俺をいったいどんな目で見てたんだよ」
俺は、学園時代からの友人二人を大衆酒場に呼び出していた。
もちろん、結婚の報告をするためだ。
最初こそ二人とも素直に祝福してくれたのだが、酒が進むにつれて、話題は徐々に妙な方向へと逸れていった。
……嫌な予感がする。
こいつらと飲むと、だいたいろくなことにならないのだ。
「で? どうなんだよ、嫁さんは」
「ん? どうって、何がだ?」
片方の友人が、口元をニヤニヤさせながら意味深な視線を向けてくる。
だが、この時点ではまだ、俺はその意図を理解していなかった。
「とぼけんなよ。身体の相性だよ、身体の相性。どうだ? 抱き心地は? 気持ちよかったか?」
「ぶっ!?」
飲んでいた酒を思いきり噴き出した。
「うへっ! きったねぇな、おい!」
「げほっ、げほっ……お、お前、いきなり何を聞きやがる!?」
むせ返り、鼻の奥にまで酒が入り込む。涙目になりながら睨みつけるが、当の本人はどこ吹く風だ。
そもそも、ここは大衆酒場である。
周囲には他の客もいるというのに、堂々と口にする話題ではないだろう。
「いいじゃねーか。猥談の一つや二つ、酒の肴だろ?」
「……」
……ああ、そうだった。
こいつは昔から、こういう下世話な話が大好物だった。
今さら思い出したところで、もう遅い。
「で? マジでどうなんだよ。胸は大きいのか? 感度は? 好きな体位とか聞いたことあるか?」
「…………」
「おいおい、黙ってないで何か答えろよ。別にお前の嫁さんを想像して楽しもうってわけじゃ――」
「……まだ、してないよ」
「「……は?」」
俺が小さく答えた瞬間、二人の動きがぴたりと止まった。
片方は口を半開きにし、もう片方は手に持っていた酒杯を止めたまま、信じられないものを見るような目で俺を見つめている。
……まあ、そういう反応になるよな。
自分でも、そう思う。
「そ、その……まだ、そういうことはしていなくて……」
「う、嘘だろ、お前!?」
驚愕の声を上げる友人。
もう一人に至っては、なぜか怒りすら滲ませた表情で俺を睨んでいた。
「お、お前なぁ……!」
「な、なんだよ……」
「三十にもなって、いったい何をやってんだ!?」
「ぐっ……!」
正論だった。
あまりにも正論すぎて、反論の余地すらない。
「だ、だって……初めての彼女だし……そもそも、ステラがそういうことに興味があるのかも分からなくて……」
「恋する乙女か!?」
「……否定できないのがつらい」
恥ずかしながら、ステラは俺にとって人生で初めてできた恋人だった。
だからこそ、大切にしたいと思っている。
軽い気持ちで手を出して、彼女を困らせるような真似はしたくない。俺の勝手な都合で、彼女の気持ちを置き去りにするのも違うだろう。
別に、そういうことに興味がないわけではない。
むしろ、興味がないと言えば嘘になる。
ただ……いざ自分がその立場になると、どうしても一歩を踏み出す勇気が出なかったのだ。
「……はぁ。まさか三十にもなって、そんなピュアな心を持ってるとはな。驚きを通り越して、もはや怖いわ」
「ぐぬぬ……!」
ぐうの音も出ない。
だが、そんな俺を見ていたもう一人の友人が、ふっと表情を和らげた。
「まあ、気持ちは分からんでもないけどな。相手を大切にしたいってのは、悪いことじゃねえし」
「……そ、そうだろう?」
「でもよ、もう結婚したんだし、そろそろいいんじゃねーの?」
「……あ、ああ。それは、そうだと思うんだが……」
ふざけていた空気が、ほんの少しだけ真面目なものへと変わる。
俺だって、ステラとの距離を縮めたいと思っている。
夫婦になったのだから、これから先もずっと一緒にいたい。できることなら、彼女と家庭を築き、幸せな人生を歩んでいきたい。
だが、だからこそ不安だった。
今さら俺から「そういうことをしよう」と誘って、彼女はどう思うだろうか。
もし、まだ心の準備ができていなかったら?
もし、俺と同じように戸惑っていたら?
それなのに、俺の都合だけで無理に踏み込んでしまったら……。
考えれば考えるほど、口に出すのが怖くなってしまう。
俺のような男を好きになり、結婚までしてくれたステラは、本当に心の広い女性だ。
だからこそ、彼女の気持ちは何よりも尊重したかった。
「マジな話、子供とか欲しいんじゃねーの?」
「そ、それは……」
友人の言葉に、思わず口ごもる。
子供。
その言葉を聞いた途端、まだ漠然としていた未来が、急に現実味を帯びて胸に落ちてきた。
俺だって、いつかは子供が欲しい。
ステラと俺の子供が生まれたら、どんな顔をしているのだろう。どんな声で笑い、どんなふうに成長していくのだろう。
そんな想像をすると、自然と頬が緩みそうになる。
……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺は一度深呼吸をしてから、恐る恐る二人の顔を見た。
「……な、なあ」
「ん?」
「ど、どうやって誘えばいいと思う?」
「「…………」」
二人は顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に、深々とため息をついた。
「……イノス、お前……」
「……マジで言ってんのか?」
「うっ……!」
どうやら、またしても呆れられてしまったらしい。
……なぜだ。
俺はただ、愛する妻と仲良くなりたいだけなのに。
こうして、人生で初めての夫婦生活に悩む俺の夜は、友人たちの容赦ない説教によって、まだまだ長く続くのだった。




