第1章ー18
奴の言っていることが、どうしても理解できなかった。
あの結界から逃げることなどできないはずだ。それに、つい先ほどまで奴の姿は確かに目の前にあった。
――また適当なことを言って、こちらを煙に巻こうとしているのか?
そう考えかけたところで、魔物が口を開いた。
「『私の影魔法の特性は、あらゆる影を手中に収め、意のままに操れること。影を用いて生物を生成することも可能ですが、それだけではありません』」
魔物は、こちらの反応を楽しむように一拍置いた。
「『私自身を、別の影へと移動させることもできるのです』」
「?! どういうことだ……?」
「『その特性を利用して逃げたのですよ。彼の影へ』」
「っ?!」
父の、影へ……?
一見すれば、荒唐無稽な話だ。
自分自身を影から影へ移動させるなど、にわかには信じがたい。だが――あの戦いを目の当たりにした自分には、なぜか理解できてしまった。
この言葉に、嘘はない。
そう直感したのだ。
他の影への移動。
つまり、自分以外の生物が落とす影にも潜り込めるということか。
そう考えれば、すべての辻褄が合う。
父は、正面にいる魔物と戦っていた。だが、最後に胸を貫かれたのは、背後からだった。
もし、目の前にいた魔物が本体ではなかったとしたら?
もし、本体が父自身の影に潜んでいたとしたら?
父が気づかぬうちに背後へ回り込み、死角から攻撃を仕掛けることも可能だったはずだ。
そして、あのときの光景が脳裏をよぎる。
父が全力の魔法を放った、あの瞬間。
「じゃ、じゃあ……あの時の魔法は……」
「『魔法? ああ、あれはただのブラフですよ』」
「……な、に?」
思わず聞き返してしまった。
ブラフ?
あの、空間を埋め尽くすほど巨大だった影が?
「『影をかき集め、それらしく成形しただけの塊です。どうでした? それなりに強大な魔法に見えたでしょう?』」
「……っ!」
言葉が出なかった。
あれほど巨大な影を、一瞬で集めて形作る。そのために必要な魔力量を考えるだけでも、異常としか言いようがない。
だが、それ以上に理解できなかったのは――あれが攻撃魔法ですらなかったという事実だった。
父は、あれを脅威と判断した。
だからこそ、全力をもって迎え撃った。
その判断自体は間違っていなかったはずだ。あれほどの規模の魔法を前にして、何もせずにいるわけにはいかなかったのだから。
だが、もし最初から攻撃する意図などなかったのだとしたら?
父が見ていたものは、最初から敵の仕掛けた幻にすぎなかったのか?
「『彼の実力を認めていたのは事実です。だからこそ、正面から戦うのは危険だと判断しました』」
魔物は、まるで世間話でもするかのように淡々と語る。
「『ならば、どうすれば確実に殺せるのか。いかに欺き、隙を作り出すか。それを考える必要がありました。中途半端な陽動では、彼には通用しませんでしたからね』」
「……っ」
「『そこで私は、全力で戦っているフリをすることにしたのです。魔法を操り、言葉を弄し、彼に信じ込ませた。――自分と正面から渡り合える敵が、そこにいるのだと』」
魔物の口元が、わずかに歪んだ。
「『案の定、彼は私の真意に気づかぬまま、全力の魔法を放った。……そちらにいたのは、分身体だというのに』」
「くっ……!」
歯を食いしばる。
もし、こいつの話が真実なら。
父は、実力で負けたわけではない。
真正面から戦えば、勝てた可能性だってあったのかもしれない。
なのに、勝機を奪われた。
敵の力を見誤ったからではない。
敵の策略に気づけなかったからだ。
いや、それすらも違うのかもしれない。
父は、最後まで勝つために戦っていた。相手が仕掛けた罠に気づかせないほど、こいつの演技が巧妙だったということなのだ。
悔しい。
どうしようもなく、悔しかった。
父がどれほど強かったのか、自分は知っている。
その父が、こんな卑劣な手段で……。
「『彼の敗因は、相手の言葉を受け入れてしまったこと。ただ、それだけです』」
魔物の視線が、まっすぐにこちらを貫いた。
「『殺し合いの場では、ほんのわずかな隙が死に直結する。どれほど強大な力を持っていようと、それは変わりません』」
そして、奴は薄く笑った。
「『君にとっては、良い学びになりましたね。――まあ、だから何だという話ですが』」
「っ?!」
頭に血が上った。
こいつ……!
父を殺しておきながら、まるで何事もなかったかのように語り、挙げ句の果てには、自分に説教までしている。
何が学びだ。
何が、だから何だ、だ。
父は……父は……!
怒りで身体が震える。
それでも、今の自分には何もできなかった。
魔物はそんな自分に興味を失ったのか、話を終えると、こちらへ向かって歩き出した。
そして、そのまま何事もなかったかのように通り過ぎていく。
……どこへ向かう?
嫌な予感がした。
だが、その正体を確かめるよりも早く――。
「きゃあああああっ!!」
「っ?! お母さん!」
母の悲鳴が響き渡った。
慌てて振り返る。
そこには、巨体の魔物に髪を掴まれ、地面へと押さえつけられている母の姿があった。
「お母さん!!」
しまった。
父の死と、目の前の魔物への怒りに囚われて、母の存在を忘れていた!
助けなければ。
今度こそ、守らなければ。
そう思った瞬間、身体が動いた。
「『さて。この勝負、私の勝利ということで』」
「や、やめ――ぐっ?!」
母のもとへ駆け出そうとした、その刹那。
背後から強烈な衝撃が叩き込まれた。
息が詰まり、身体が前のめりに吹き飛ぶ。
地面に肩を打ちつけ、視界が激しく揺れた。
「くっ……そ……っ!」
痛みに耐えながら、どうにか身体を起こそうとする。
だが、遅かった。
いつの間にか、複数の魔物たちが周囲を取り囲んでいた。
「があっ?!」
背中を押さえつけられ、再び地面に伏せられる。
振りほどこうと身体をよじるが、びくともしない。
魔力では劣るはずの相手に、純粋な腕力で完全に制圧されていた。
くそっ……!
こんなところで、何をやっているんだ!
父は死んだ。
母まで捕まっている。
なのに、自分は何一つできない。
助けに行くことすら、許されない。
「『戦利品は、この村のすべてです』」
魔物は、地面に押さえつけられた自分を見下ろしながら、愉快そうに告げた。
「『元々、略奪が目的で来たのです。勝ち負けなど、最初から存在しません』」
「……っ!」
その言葉に、息を呑む。
つまり、こいつらは最初から村を奪うつもりだったのか。
父との戦いすら、その目的を果たすための手段にすぎなかった。
勝負に勝つことが目的だったわけではない。
村を襲い、人々を蹂躙し、奪えるものを奪う。
そのために父を欺き、殺した。
ただ、それだけのことだったのだ。
「『もっとも――君が私を倒せるというのなら、話は別ですがね』」
「くっ……!」
魔物の挑発に、歯を食いしばる。
倒せるものなら倒してみろ。
そう言いたいのだろう。
だが、今の自分には反論することすらできなかった。
身体は押さえつけられ、母は捕らえられ、父はもう動かない。
何もかもが、自分の手の届かないところへ行ってしまった。
悔しかった。
悲しかった。
そして、何よりも――自分の無力さが、どうしようもなく憎かった。
頬を伝う涙を拭うことすらできず、自分はただ、地面に伏せたまま歯を食いしばることしかできなかった。
こうして、自分たちの平和な日々は、あまりにも突然終わりを告げた。
家族と笑い合い、村の人々と暮らしていた穏やかな日常。
そのすべてが、一瞬にして奪われていく。
そして――。
地獄のような日々が、幕を開けた。
――転生勇者が死ぬまで、残り8169日




