第1章ー17
「?! なん……だと?」
魔物の放った言葉が、遅れて胸の奥に突き刺さった。
痴人――だと?
自分たちを守るために命を懸けて戦った父を、そんな一言で踏みにじるだと?
ふざけるな。
父が、どれほどの覚悟で戦っていたのか。どれほど必死に、自分たちを守ろうとしていたのか。
何も知らないくせに。
何も分かっていないくせに。
怒りが、胸の奥から込み上げてくる。
全身を駆け巡る熱が、恐怖に凍りついていた身体を少しずつ解きほぐしていく。震えていた手に力が戻り、地面に崩れ落ちていた膝にも、わずかながら感覚が蘇った。
だが、そんな自分の変化など気にも留めず、魔物は淡々と口を開いた。
「『私には三つの武器があります』」
「ッ?!」
魔物は、まるで講義でも始めるかのように人差し指を立てた。
ここは戦場だ。
周囲には破壊の爪痕が刻まれ、少し離れた場所には、つい先ほどまで戦っていた父が倒れている。
それなのに、目の前の魔物には焦りも警戒も見られなかった。
まるで、すべてが予定どおりに進んでいるかのように。
「『一つ目は、この“陰魔法”。これによって、私は相手を直接殺すことができる』」
そう言って、魔物は黒い手をゆっくりと掲げた。
闇そのものを形にしたような、不気味な手。
それが、父の胸を貫いた凶器だった。
見間違えるはずもない。
あの手が引き抜かれた瞬間、父は地面に倒れたのだから。
拳を握り締める。
今すぐ飛びかかって、あの手を叩き落としてやりたい。
だが、相手との実力差は嫌というほど分かっていた。
怒りに任せて突っ込んだところで、父と同じ結末を迎えるだけかもしれない。
それでも、目を逸らすことはできなかった。
「『二つ目は、“頭脳”。相手を殺すための策を練るのに必要な武器です』」
魔物は自らのこめかみに指を当て、楽しげに口元を緩めた。
……魔法だけじゃない。
こいつは、力だけで戦っているわけではないのか。
相手の能力を見極め、状況を分析し、勝つための方法を考える。
そうした思考そのものを、武器と呼んでいる。
ならば、最後の一つは何だ?
魔法と頭脳。
この二つに並ぶほどの武器とは、一体――。
「『そして三つ目は、“言葉”です』」
魔物は、今度は自分の口元を指差した。
「ッ?!」
言葉?
思わず息を呑んだ。
魔法でもなければ、武器ですらない。
ただ話すことが、戦いにおける武器になるというのか?
意味が分からず、眉をひそめる。
そんな自分の反応を楽しむかのように、魔物は言葉を続けた。
「『魔物と人類が敵対関係にあることは、言うまでもありません。では、なぜ私たちが、わざわざ人間の言葉を話すと思いますか?』」
「……」
分かるはずがない。
そもそも、そんなことを考えたことすらなかった。
魔物が人間の言葉を話す。
ただそれだけのことを、今まで深く疑問に思ったことはなかったのだ。
だが、目の前の魔物は違う。
その事実に、何かしらの意味を見いだしている。
そして、その答えをこちらに聞かせること自体が、こいつの狙いなのかもしれない。
「『答えは単純。“人を欺くため”です』」
「……っ」
「『人間とは、愚かで単純な生き物です。同じ言葉を話すというだけで、相手を理解した気になってしまう。無意識のうちに警戒を緩め、気づかぬうちに相手の思惑へと引きずり込まれる』」
魔物は、さも当然の事実を語るかのように言い放った。
「『言葉が通じる。だから話し合える。話し合えるのだから、こちらの考えも理解できるはずだ――。そうやって勝手に相手を信用し、隙を見せるのです』」
「で、デタラメを……言うな」
声が震えた。
父を失った衝撃は、まだ消えていない。
胸の奥は張り裂けそうで、今にも泣き崩れてしまいそうだった。
それでも、黙って聞いているわけにはいかなかった。
このままでは、父までもが、相手の言うとおりの愚か者として塗り替えられてしまう。
そんなことだけは、絶対に認められない。
「お父さんが……そんなことで油断するはずがない……!」
父は、騎士団の副団長にまで上り詰めた人だ。
数え切れないほどの戦場を経験し、命懸けの戦いを乗り越えてきた。
そんな父が、言葉が通じるというだけで相手を信用するはずがない。
絶対に。
そう信じたかった。
「『……そうですね。後半は適当に考えました』」
「……は?」
あまりにも予想外の返答に、思考が止まった。
今、こいつは何と言った?
適当に考えた?
つい先ほどまで、あれほどもっともらしく語っていた理屈を、自分からあっさりと否定したのか?
冗談を言っているようには見えない。
かといって、真面目に説明しているようにも思えなかった。
何なんだ、こいつは。
「『さっき言いましたよね? “人を欺くために我々は人語を語る”と』」
「……何が言いたいんだよ、おまえ」
腹の底から、不快感が込み上げてきた。
こいつは何をしたいんだ?
父を殺しただけでは飽き足らず、今度はわざわざ自分の前で、こんな話を聞かせている。
こちらを納得させたいわけでも、何かを教えたいわけでもない。
ならば、一体何のために?
……違う。
もしかすると、こいつは最初から――。
「『君は、私の話を半信半疑で聞いていました』」
魔物が、こちらを見据えた。
「『ですが……彼はどうだったでしょうか?』」
「?」
その視線が、ゆっくりと横へ流れる。
向けられた先にあるのは、地面に倒れ伏した父の姿だった。
「『彼は、私の言葉を鵜呑みにしていましたよ』」
「……は?」
「『彼の敗因は、そこです』」
「はあ? お父さんが、そんなヘマを――」
反射的に言い返そうとした。
だが、言葉が続かなかった。
父は、確かに魔物と戦っていた。
何度も攻撃を仕掛け、あれほどの魔法を放ち、最後まで勝つために全力を尽くしていた。
それなのに、敗因が言葉を信じたこと?
そんな馬鹿な話があるものか。
そもそも、こいつの言っていることが本当だという保証すらない。
……いや。
だからこそ、こいつはこんな話をしているのか?
「『なら、教えて差し上げましょう』」
魔物の声から、先ほどまでの軽薄さが消えた。
その声音は静かだった。
静かすぎるほどに。
「『私がどうやって、君の父を“殺せたのか”を』」
「っ?!」
背筋に、冷たいものが走った。
混乱が頭の中で渦を巻く。
父は、魔法の撃ち合いで押し負けたのではないのか?
確かに、最後に父の胸を貫いたのは魔法の弾丸などではなかった。
あの黒い手だ。
だが、どうやって?
煙に紛れて接近したのか?
いや、そんな単純な話ではないはずだ。
父は歴戦の騎士だった。
敵の接近に気づかないほど、注意を怠る人ではない。
ましてや、あれほど激しい戦闘の最中に、目の前の敵を見失うなど――。
思考がまとまらない。
何かを見落としている。
何か、決定的なものを。
魔物は、そんな自分の困惑を見透かすように、ゆっくりと口角を吊り上げた。
「『逃げたんですよ』」




