第1章ー16
「ぐうっ?!」
結界が砕け散った。
直後、凄まじい爆風が周囲を薙ぎ払った。
空気そのものが悲鳴を上げたかのような轟音。大地が震え、巻き上げられた土砂と破片が容赦なく周囲へと飛び散っていく。
物置小屋のそばまで避難していた自分と母さんは、辛うじて吹き飛ばされずに済んだ。
だが、安堵する余裕などなかった。
荒れ狂う風が身体を叩き、立ち込める煙が視界を覆い尽くしている。目を開けているだけでも精一杯で、少し先の景色すらまともに見えない。
父は……?
今、どうなっているんだ?
確かめたいのに、前へ進むことすらできなかった。
――父の全力。
それを初めて目の当たりにした自分は、ただ圧倒されることしかできなかった。
想像を遥かに超える魔力。
周囲のすべてを破壊しかねない、凄まじい一撃。
理解が追いつかない。
理解するよりも先に、世界そのものが壊れていくようだった。
あんな狭い空間の中で、父はあれほどの力を解き放ったのだ。
もし、父が結界を張っていなかったら。
もし、あの一撃を防ぐものが何もなかったら。
自分たちは爆風に呑み込まれ、跡形もなく消し飛んでいたかもしれない。
それほどまでの威力だった。
そして――そんな力を持つ父と、互角に渡り合っていた魔物。
何度斬られても、何事もなかったかのように再生する身体。
強烈な魔法を浴びても、まるで意に介さない異形。
常識が通用しない。
こちらがどれほどの力を振り絞ろうと、あいつには届かないのではないか。
そんな考えが、頭の中を埋め尽くしていく。
父に、勝機はあるのか?
胸の奥から、じわじわと冷たいものが広がっていく。
怖い。
父が負けるかもしれない。
その事実を想像しただけで、呼吸が苦しくなった。
それでも――祈ることだけは、やめられなかった。
――勝ってくれ。
――お願いだから、生きて帰ってきてくれ。
前世の自分は、神頼みなど信じていなかった。
祈ったところで何かが変わるわけではない。願うだけで状況が好転するのなら、誰も苦労などしない。
そう考えていた。
けれど、今は違う。
自分にできることが何もないからこそ、祈らずにはいられなかった。
どれほど無意味だと分かっていても。
どれほど届くはずがないと思っていても。
今だけは、見えない何かに縋りたかった。
どうか、父を助けてください。
どうか、父を死なせないでください。
「……うっ……」
やがて、あれほど激しかった爆風が少しずつ弱まっていった。
吹き荒れていた風が収まり、舞い上がった土煙もゆっくりと薄れていく。
それでも、肝心の光景はまだ見えない。
何が起きたのか。
父は無事なのか。
それとも――。
考えかけた言葉を、必死に頭の中から追い払う。
大丈夫だ。
父は強い。
あれほどの力を持っているんだ。きっと、あの魔物にも勝っているはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、気づけば足を踏み出していた。
少しでも早く、父の姿を確かめたかった。
だが、煙はまだ濃い。
目で見えないのなら、別の方法を使えばいい。
――魔力感知だ。
未熟な自分でも、父の魔力なら嫌というほど知っている。
幼い頃から、何度もその魔力を感じてきた。
魔法の訓練をするときも、剣術を教わるときも、父がそばにいてくれた。
だからこそ、分かるはずだ。
父の魔力を探すだけなら、きっと――。
「っ!?」
探知した魔力は、ひとつだけだった。
周囲に漂う魔力の残滓を除けば、そこに存在するのは、ただひとつ。
そして、それは――。
父のものではなかった。
「……お、お父……さん?」
喉が、ひゅっと鳴った。
そんなはずがない。
もう一度、意識を集中させる。
魔力を探る。
何度も、何度も。
けれど、結果は変わらなかった。
そこに父の魔力はない。
代わりに感じられるのは、冷たく、異質で、身の毛もよだつような魔力だけだった。
煙の向こうに、人影が浮かび上がる。
その輪郭を見た瞬間、身体が強張った。
違う。
違う、違う。
あれは、父じゃない。
そうであってほしいと願いながら、恐る恐る視線を凝らす。
そして――。
「――ッッ!!?」
ようやく煙が晴れ、目の前の光景が露わになった。
刀を振り下ろした姿勢のまま、静止する父。
その胸を、黒い手が貫いていた。
何が起きたのか、理解できなかった。
父は、確かに立っている。
刀を握り、敵へと刃を向けている。
それなのに、その身体からは何の気配も感じられなかった。
魔力がない。
いつも感じていた、力強く温かな魔力が。
どこにも、ない。
「……あっ……ああっ……」
喉の奥から、かすれた声が漏れた。
足に力が入らない。
膝が震え、身体を支えきれなくなる。
そのまま、地面へと崩れ落ちた。
嘘だ。
嘘だろ?
だって、父は……。
黒い手が、ゆっくりと父の胸から引き抜かれた。
支えを失った身体が、わずかに傾く。
そして。
父は、音もなく地面へ倒れた。
「……っ」
動かない。
ピクリとも動かない。
呼吸をしている様子もなければ、立ち上がろうとする気配もない。
ただ、そこに横たわっている。
いつも自分を守ってくれた父が。
どんなときでも頼りになった父が。
もう、動かない。
父の手から滑り落ちた刀が、地面に触れる。
カラン、と乾いた音が響いた。
その刀は、まるで役目を終えたかのように輪郭を失い、崩れ始めた。
刃が、柄が、鍔が。
次々と灰へと変わり、吹き抜ける風にさらわれていく。
最後には、何も残らなかった。
「『ふう……少々危なかったですね』」
「……そ、そんな……」
魔物の声が聞こえた。
ひどく落ち着いた、平坦な声だった。
まるで散歩の途中で、道に転がっていた石に躓きでもしたかのような口調。
あれほどの死闘を繰り広げていた相手を、たった今、殺したというのに。
そこには喜びも、怒りも、達成感すら感じられなかった。
ただ、少しばかり面倒なことが終わった。
それだけだと言わんばかりの態度だった。
「……っ、う……」
涙が溢れた。
止めようとしても止まらない。
目の前が滲み、父の姿がぼやけていく。
それでも、視線を逸らすことができなかった。
あの魔物を睨みつけることしかできない自分が、あまりにも情けなかった。
動け。
動けよ。
今すぐ立ち上がれ。
父を殺したあいつを、許すな。
何のために、今まで特訓してきたんだ。
何のために、魔法を覚え、剣を振るってきたんだ。
守るためじゃなかったのか。
大切な人を守れるように、強くなろうとしていたんじゃないのか。
なのに。
なのに、どうして――。
足が動かない。
手が震える。
身体の芯まで恐怖に侵され、立ち上がることすらできなかった。
情けない。
悔しい。
何よりも、怖かった。
目の前にいる魔物が。
父を失ったという現実が。
そして、自分には何もできなかったという事実が。
何もかもが恐ろしくて、身体から力という力が抜け落ちていく。
そんな自分を嘲笑うかのように、魔物が口を開いた。
「『だがまあ……所詮は人間。君の父は、とんだ痴人でしたよ』」
――その言葉が、最後の一撃だった。
父を殺しただけでは飽き足らず。
父が命懸けで守ろうとしたものを知りもしないくせに。
その生き方までも、踏みにじろうとする。
胸の奥で、何かが音を立てて壊れた。




