第1章ー13
「ぬうっ?!」
影へと切っ先が触れようとした、その瞬間だった。
エイシャの足元に広がる影が、どろりと蠢いた。
次の瞬間、そこから巨大な手が勢いよく飛び出し、俺の刀をがっしりと掴んだ。
「なっ……!?」
刀身が、動かない。
また生成系の魔法か? いや、待て。いったいいつ魔法を――。
「『惜しかったですね。ですが、貴方がこうすることは、私には見えていましたよ』」
「くっ……!」
刀を握る手に力を込め、強引に引き抜こうとする。
しかし、抜けない。
大きな手は刀身を逃がすまいと、万力のような力で締めつけていた。
マズい。このままでは、刀そのものが手の中に飲み込まれる。
上限解放を第四段階まで引き上げた今、腕力だけなら、こんな片手の魔法ごときに負けるはずがない。
それなのに、刀を掴む感触がおかしい。
硬いわけでも、単純に力が強いわけでもない。
まるで、底なし沼に刃を突き立ててしまったかのようだった。
引き抜こうとすればするほど、刀身がずぶずぶと沈んでいく。かといって動きを止めれば、今度は手が刀身を伝い、じわじわとこちらへ這い上がってくる。
このままでは、刀だけで済まない。
何をされるか分からない。そんな得体の知れない恐怖が、背筋を駆け抜けた。
「ちっ……!」
これ以上は危険だ。
俺は舌打ちし、刀を手放すと同時に後方へ飛び退いた。
手から離れた刀は、巨大な手に掴まれたまま地面へと沈み始める。
クソッ。よりにもよって、こいつを奪われるとは……!
業炎刀は、通常の業火剣をさらに強化した特別製だ。
業火剣なら、必要に応じて何度でも生成できる。だが、業炎刀はそう簡単にはいかない。生成の難易度が格段に高く、今の俺が新たに作れるとしても、あと一本が限界だろう。
それに、再生成する時間も惜しい。
何より――。
「はあっ……はあっ……!」
息が、苦しい。
動きを止めたせいだろうか。先ほどよりも肺の締めつけが強くなった気がする。
このまま戦闘が長引けば、俺の方が先に限界を迎える。
「『どうしました? 貴方のターンは、これで終わりでしょうか?』」
声のした方へ視線を向ける。
そこには、先ほどまで八つ裂きにされていたはずのエイシャが立っていた。
バラバラだった身体は、すでにほとんど元通り。まるで何事もなかったかのように、こちらを見つめている。
相変わらず、余裕綽々の煽りっぷりだ。
「……なんで魔法が使える」
乱れた呼吸を整えながら、俺は問いかけた。
「呪文を唱える隙すら与えなかったはずだ。なのに、どうやってあの手を出現させた?」
空気は薄くなりつつあるが、まだ耐えられる。
今はそれよりも、魔法の発動条件を突き止める方が先だ。
俺が仕掛ける前に、あらかじめ罠を仕込んでいたのか?
いや、それも考えにくい。
あれだけの速度で結界内を駆け回っていたのだ。仮に罠を仕掛けていたとしても、発動する機会はいくらでもあったはず。
それなのに、あの手が出現したのは、俺が影を斬ろうとした瞬間だった。
偶然とは思えない。
エイシャの口ぶりからしても、俺があの行動に出ることを予測し、狙って魔法を発動させたとしか考えられなかった。
だが、どうやって?
俺が影を狙う、その直前。
あの一瞬に、いったい何をした?
「『さて。いつ魔法を使ったのでしょうね?』」
「……」
エイシャは答えるどころか、こちらを試すように笑った。
本当に教える気がないのか。それとも、俺が答えに辿り着けないと高をくくっているのか。
どちらにせよ、今すぐ答えが出る問題ではない。
ならば、ひとまず後回しだ。
問題は、ここからどう戦うか。
刀を手放したのは痛すぎる。業炎刀がなければ、本来の力を引き出せない。
その刀は今も、巨大な手と共に地面へ沈み続けていた。
このまま諦めて、新たに生成するか。
それとも――奪い返すか。
「……ふう」
短く息を吐き、決断する。
答えは後者だ。
今から刀を生成するとなれば、少なくない時間が必要になる。そもそも、エイシャがそんな隙を見逃してくれるはずもない。
それに、弱点はすでに看破した。
あの手は、俺が影を狙うことを阻止するために出現したのだろう。刀を奪うことで戦力を削ぎ、反撃の機会を作る。あるいは、刀ごと俺を影の中へ引きずり込むつもりだったのかもしれない。
どちらにせよ、ここで退くわけにはいかない。
刀を取り戻し、もう一度、影を狙う。
そのためには――。
「上限解放・伍!」
最後の段階を解放するしかない。
「『……まだ抵抗なさる気で?』」
「当たり前だ! こっちは負けられねぇ理由があんだよ!!」
上限、全解放。
本来なら、この領域に至るまでには十分な慣熟が必要だ。段階的に身体を慣らし、解放された魔力に耐えられるようにしなければならない。
だが、今はそんな悠長なことを言っていられる状況ではなかった。
無茶は承知の上。
それでも、力を解き放つ。
「ゔっ……?!」
瞬間、身体が大きく揺らいだ。
先ほどまで羽のように軽かった身体が、突如として鉛の塊に変わったかのように重くなる。
膨大な魔力が全身にのしかかり、足元がふらついた。体勢を崩しかけ、俺はどうにか踏みとどまる。
何だ、これは……!
力を解放したはずなのに、身体が思うように動かない。
一瞬、判断を誤ったかと思った。
だが、違う。
今、必要なのは速さじゃない。
敵の動きを上回ることでも、攻撃をかわすことでもない。
必要なのは――。
あの手から、業炎刀を奪い返すための力だ。
「はあ……はあ……」
荒い呼吸を繰り返しながら、俺はゆっくりと顔を上げた。
エイシャの影に沈みかけた刀を見据える。
まだ間に合う。
まだ、取り戻せる。
「……いくぞ!」
俺はエイシャへ向けて片手を突き出した。
ここからが、本当の勝負だ。




