第九話 「外交問題」
朝の書斎は静かだ。
アリシアは窓から差し込む光の中で、ヴァルツ王国との通商記録を読み込んでいた。ここ三年分の取引量、品目、季節ごとの増減。数字の並びは正直で、見ていれば何かが見えてくる。
(関係自体は悪くない。むしろ安定していた)
だからこそ、今回の話が妙だった。
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セバスチャンがその件を報告してきたのは、昨日の夕方だった。
「ヴァルツ王国より、クロイツへの正式な申し入れがございました」
家令の顔が、普段より少し硬かった。
「内容は」
「川の利水権の問題です。上流のクロイツ領で農地開発を進めた結果、ヴァルツ側へ流れる水量が減少した——と、彼らは主張しております」
アリシアは一度ペンを置いた。
「いつから水量が落ちたと言ってる」
「三年前から、と」
「クロイツが農地開発を始めたのは」
「……四年前です」
(タイムラグが一年ある。それが鍵になるかもしれない)
「開発の規模と場所の詳細、それからここ五年の降水量のデータがあれば持ってきてください」
「降水量、ですか」
「念のために」
セバスチャンが少し間を置いてから、静かに頷いた。
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翌朝、ディアスが書斎に現れた。
「ヴァルツの件、セバスチャンから聞いた」
「私も今資料を見ていたところです」
彼は向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。いつもは用件を片付けてすぐ出て行くのに、今日は特に急ぐ様子がなかった。
「どう思う」
「まだ分かりません。データが揃っていないので」
「感触として」
アリシアはしばらく記録を見てから答えた。
「ヴァルツは農業国です。水は命綱になる。だから今回の申し入れは、単なる交渉カードではなく、本当に困っている可能性が高い」
「クロイツのせいだとしたら」
「補償か、解決策を出すことになります。ただ—」
「ただ?」
「クロイツの開発が原因かどうか、まだ分からないので。決めつけて動くのは早いです」
ディアスがアリシアを見た。少し、間があった。
「……朝から読んでたの、ずっと」
「早く動いた方がいいと思ったので」
「朝食は」
「後で」
「食べてから読めばよかったのに」
アリシアは顔を上げた。ディアスが何とも言えない顔をしていた。呆れているようにも見えたが、それとは少し違う。
「食事の順番の話をしに来たんですか」
「違う」彼は少し笑った。「今日の打ち合わせを、昼にしようと思って。その前に、一緒に食事でもどうかと」
(……珍しいことを言う)
外交案件の打ち合わせは通常、午前に行う。わざわざ昼にずらす理由がアリシアには分からなかった。
「昼にする理由が何かありますか」
「君が朝食を食べる時間が取れるから」
三秒、考えた。
(公爵家の特別顧問として、健康管理も職務に含まれる、ということだろう。効率を重視するなら理にかなっている)
「分かりました。では昼に」
ディアスがまた、少し笑った。今日のその笑い方はアリシアにはまだ意味が読めなかった。
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昼の打ち合わせでセバスチャンが揃えてきた資料は、想像より分厚かった。
降水量の記録、農地開発の工事記録、川の水量を計測した記録。それから、ヴァルツ側が正式に提出してきた申し立て書。
アリシアは順番に読んでいった。
(……ある)
数字の中に、一本の筋が見えてきた。
「セバスチャンさん、ヴァルツの農地管理の記録はありますか。彼ら自身の」
「公式には残っておりません。ただ、過去にヴァルツと取引していた商人の記録であれば、多少……」
「それを見せてください」
家令が書斎を出ていく。ディアスがアリシアの手元を見ながら言った。
「何か見えた?」
「まだ確認が必要ですが」アリシアは降水量の記録を指さした。「ここを見てください。三年前の春、この地域全体で降水量が大きく落ちています」
「……確かに」
「クロイツの開発が始まったのは四年前。でも水量が落ちたのは三年前から。開発との因果を主張するには、タイムラグが大きい」
「つまり」
「開発が原因ではないかもしれない。もともとこの三年間、雨が少なかった。それが本当の原因であれば、ヴァルツ側の農地管理の問題が表に出てくる可能性があります」
ディアスがしばらく黙った。
「それをヴァルツに言えるか」
「直接は言えません」アリシアは首を振った。「面子の問題があります。相手が自分たちの管理ミスだったと気づいても、クロイツに指摘された形では引けなくなる」
「では」
「彼らが自分で気づける状況を作る。データを一緒に見る場を設けて、答えに自然にたどり着いてもらう。そういうやり方があります」
ディアスが静かにアリシアを見た。
「……それ、前の職場でもやったの」
「似たようなことは」
「相手に気づかせる、か」
「指摘するより、気づいてもらった方が関係が続きます。今後もヴァルツとは付き合っていく必要がある」
(田中アリサとして商社にいた頃、取引先に非があっても真正面から指摘すると関係が壊れることがあった。正しいことと、上手くやることは、時に別々の話だ)
ディアスが少し目を細めた。
「君はいつも、その先まで考えてるんだね」
「仕事ですから」
「……そういうところが」
「また言いかけましたね」
「今日は言わない」彼は立ち上がった。「ヴァルツへの返答、段取りを組んでくれ。窓口はアリシア、君に任せる」
「分かりました」
「一つだけ」ディアスが扉に向かいながら言った。「今夜、資料は持ち込まなくていい。仕事は昼間に終わらせること」
アリシアは少し止まった。
(それは雇用主の指示として受け取っていいのか)
「……承知しました」
ディアスが出ていった後、書斎にセバスチャンが戻ってきた。商人の記録を抱えている。
アリシアはそれを受け取りながら、今日のディアスの言動をもう一度頭の中で並べてみた。
打ち合わせの時間をずらしたこと。資料を持ち込むなと言ったこと。
(雇用主として健康管理を気にしている、ということだろう。そういうことだろう)
でも昨日感じたこと——「今日のは違う色をしている気がした」という感覚が、今日またわずかに戻ってきた。
アリシアはそれを頭の隅に置いて、手元の資料に視線を落とした。




