第十話「ヴァルツへの返答」
ヴァルツの使者が到着したのは、午前のまだ早い時間だった。
アリシアは応接室に向かう前に、もう一度手元の資料を確認した。降水量の記録、農地開発の工事記録、ヴァルツ側から提出された申し立て書。それから——商人の記録から引き出した、ヴァルツ自身の農地管理の変遷。
(全部揃っている。あとは相手が自分で気づけるかどうかだ)
廊下でメイドとすれ違った。無言で一礼して、静かに通り過ぎた。
扉を開けると、ディアスがすでに上座に座っていた。
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ヴァルツの使者は二人だった。四十代の外交官と、農務を担当していると思われる若い文官。
アリシアはディアスの隣ではなく、少し外れた位置に座った。今日の自分の役割は交渉相手ではなく、情報を整理する側だ。
「先日いただいた申し立て、こちらでも詳しく調査いたしました」
外交官が口を開いた。声に緊張がある。
「ご確認いただけたということは、クロイツ側に非があると」
「調査の結果をご共有したいと思いまして」
アリシアは資料を取り出した。
「まず、ご確認いただきたいのですが——こちらがここ五年の降水量の記録です。この地域全体の数字になります」
使者の二人が資料に目を落とした。
「……三年前に、大きく落ちていますね」
若い文官が呟いた。アリシアは頷いた。
「はい。この年の春、この地域全体で降水量が例年の六割を下回りました。翌年も同様です」
「しかし、クロイツの農地開発は——」
「四年前から始まっています」アリシアは穏やかに言った。「水量が落ち始める、一年前です」
沈黙があった。
(気づき始めている。もう少し)
「こちらが、クロイツの開発規模と場所の詳細です。上流域からの距離と、取水量の変化も記録しています。取水量の変化と、ヴァルツ側の水量減少のタイミングが一致していないことが分かります」
外交官が眉を寄せた。
「では、原因は——」
「断定はできません」とアリシアは言った。「ただ、数字はそう示しています」
若い文官が、隣の外交官と目を合わせた。
(言わなくていい。相手がそこに辿り着けば十分だ)
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しばらく資料を検討した後、外交官が口を開いた。
「……率直に伺っても、よろしいですか」
「どうぞ」
「ヴァルツの農地管理が、この三年で変化していた可能性がある、ということでしょうか」
アリシアは少し間を置いた。
「可能性の一つとして、調査の価値はあるかもしれません」
外交官が深く息を吐いた。
ディアスはその間、一度も口を挟まなかった。上座から全体を、ただ見ていた。
「クロイツとしては、今後どのようなご意向で」
「ご提案があります」アリシアは次の資料を出した。「この地域の河川水量を共同で管理する仕組みを作ることです。クロイツとヴァルツ双方が定期的にデータを共有し、早期に問題を検知できる体制を整える。どちらか一方の問題ではなく、流域全体の問題として扱う」
「……共同管理、ですか」
「水は動きます。上流だけ管理しても、下流だけ管理しても、限界があります。一緒にやった方が、両国にとって長期的には得です」
外交官がしばらく考えた。
「……持ち帰って、検討させてください」
「もちろんです」
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使者が帰った後、応接室に三人が残った。
セバスチャンが口を開く前に、ディアスが言った。
「上手くやったね」
「先方が自分で気づいてくれました」
「そうなるように持っていったのは君だ」
アリシアは特に返さなかった。ディアスが続けた。
「共同管理の提案、今日初めて出てきた話だね」
「資料を見ながら考えました。断る理由がない提案にすれば、先方も受けやすい」
「……なるほど」
セバスチャンが静かに言った。「第一四半期の集計も、本日出ております。ご確認いただけますか」
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数字は、想定をわずかに上回っていた。
農地の収益、交易路の通行量、商業区画の売上。アリシアが着任してから三ヶ月分の結果が、紙の上に並んでいる。
(悪くない。むしろ、少し早かった)
「想定通りですか」とディアスが聞いた。
「想定より少し良いです。ただ、これは季節要因もあるので、次の四半期で確認が必要です」
「……君、良い数字が出ても顔が変わらないね」
「変える理由がありません。まだ途中です」
ディアスが少し笑った。今日何度目か、アリシアは数えていなかった。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「ここに来て、後悔したことはある?」
アリシアは少し止まった。
(後悔。今まで一度も考えたことがなかった)
「ありません」
「理由は」
「報酬をもらいながら、やりたいことをやっています。前の職場では、そのどちらもありませんでした」
ディアスがアリシアを見た。少し長い間があった。
「……ありがとう」
「何のお礼ですか」
「来てくれたこと」
アリシアは答えに詰まった。雇用主がそういうことを言うのは、珍しいことではないのかもしれない。でも——
(今日のこれは、業務上の言葉ではない気がした)
「……こちらこそ、拾っていただきました」
ディアスが窓の外に視線を移した。外はもう昼を過ぎていた。
「今日は早く上がっていい」
「資料の整理が——」
「明日でいい」
アリシアはしばらく考えてから、頷いた。
(珍しいことが続く日だった)
窓から差し込む光の中で、アリシアは今日起きたことをもう一度頭の中で並べてみた。会議のこと、数字のこと、そしてディアスの「ありがとう」。
整理しようとして、うまくいかなかった。




