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元社畜令嬢、婚約破棄されたので隣国で本気出します  作者: ハル


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第七話 「特別顧問」

翌朝、アリシアは普段より少し早く目が覚めた。


 窓の外はまだ薄明るい。鳥の声がする。


 (今日、契約をする)


 田中アリサとして会社にいた頃、労働契約書にサインした日のことを思い出した。入社初日、緊張していた。でも今は緊張していない。不思議だと思った。


━━━━━━━━━━━


 朝食の後、ディアスの執務室に通された。


 部屋は書斎より広く、正面に大きな机がある。窓から見える中庭の緑が、朝の光の中でよく映えていた。


 「座って」


 ディアスがすでに机の前に座っていた。


 アリシアは向かいの椅子に腰を下ろした。テーブルの上に書類が二枚ある。


 「読んで」


 手渡された書類に目を通す。


 (……思ったより条件がいい)


 月額の報酬、業務の範囲、居住についての取り決め。全て明確に書かれている。田中アリサとして何十もの契約書を読んできたが、これは丁寧に作られた書類だと分かった。


 「肩書きは『特別顧問』にしてある。財務・商業・外交、必要があれば何でも動いていい。制限は特に設けない」


 「分かりました」とアリシアは言った。「一点だけ確認してもいいですか」


 「どうぞ」


 「成果が出なかった場合の評価基準は」


 ディアスが少し目を細めた。


 「……それを聞く人間、初めてだよ」


 「確認しておく方が双方のためになります」


 「成果が出なかった場合は話し合う。一方的に切ることはしない」


 アリシアはもう一度書類を見た。


 (信用していい内容だ)


 「署名します」


 羽ペンを取った。名前を書いて、ディアスに返す。彼も署名して、一枚をアリシアに差し出した。


 「これでクロイツ公爵家特別顧問だ」


 「ありがとうございます」


 (ようやく名刺ができた)


 田中アリサの部分がそう思って、少しおかしくなった。


━━━━━━━━━━━


 夜、仕事を終えてアリシアが廊下を歩いていると、テラスに明かりが見えた。


 ディアスが椅子に座って夜空を見ていた。グラスを持っている。


 「来る?」


 振り返らずに言った。


 「……少しだけ」


 隣の椅子に座った。夜風が涼しかった。遠くに星が見える。王都ではこんなに星が見えなかった。


 しばらく二人とも黙っていた。


 「昨日の茶会」とディアスが言った。「うまくやってたね、とは言ったけど。疲れただろう」


 「社交は得意ではないので」


 「でも得意な人間みたいに見えた」


 「必要なことをやるだけです」


 ディアスが少し笑った。グラスを傾ける。


 「アリシアは休むの、苦手そうだね」


 「……そうかもしれません」


 (前世でも今世でも、何もしない時間の使い方が分からなかった。常に次のことを考えていた)


 「今日で契約も決まった。名実ともにここの人間になったわけだ」


 「はい」


 「ここに来て、どうだった」


 アリシアはしばらく考えた。


 「働きやすいです」


 「それだけ?」


 「……居心地が悪くないです」


 ディアスが少し黙った。


 「それ、君にとってはかなりのことだと思う」


 アリシアは答えなかった。否定もしなかった。


 夜風がテラスを通り過ぎた。星が少し動いた気がした。


 「ディアス様は」とアリシアは聞いた。「なぜ私を誘ったんですか」


 ディアスがグラスを置いた。


 「もったいないと思ったから」


 「それは聞きました。最初に」


 「七年前の茶会で、うちの使者が老侯爵に失礼なことを言いかけた瞬間があった。君は会話の途中でさりげなく老侯爵の方へ歩いて、何でもない話を始めた。うちの使者の方には別の令嬢が自然に近づいた。一分も経たないうちに、二人は別々の場所にいた。誰も気づかなかった。俺だけが、君が動く前から見ていた」


 アリシアはしばらく黙った。


 「……それを、七年間覚えていたんですか」


 「忘れる理由がなかった」


 (七年前。私がまだ十歳の頃から、この人は見ていた)


 田中アリサの部分が、静かにその言葉を受け取った。誰も見ていないと思っていた。でも一人だけ、見ていた。


 「……もっと早く言ってもよかったのでは」


 ディアスが吹き出した。


 「君、そこで言う?」


 「事実として」


 「……そうだね。もっと早く言えばよかった」


 二人の間にしばらく沈黙が続いた。でも今夜の沈黙は、初めてここに来た夜とは違う種類のものだった。


 アリシアはグラスをもらって、一口飲んだ。


 (悪くない夜だ)


 田中アリサの部分も、今夜ばかりは仕事のことを考えなかった。

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