第六話 「社交の場へ」
「今夜、茶会がある」
朝食の席でディアスが言った。
「クロイツの有力貴族が集まる。君にも来てほしい」
アリシアはカップを置いた。
「私が、ですか」
「そろそろ顔を見せた方がいい。商人の間では名前が広まってきてるが、貴族側はまだ君のことを知らない」
(貴族社交か)
田中アリサとして生きていた頃、取引先との会食は得意でも好きでもなかった。でもやらなければならない場があることは分かっている。
「分かりました。どんな方が来られますか」
「クロイツの有力貴族が十数名。あとは流れで」
「……流れ、ですか」
「そういう場だから」
(それは困る。事前情報なしで社交をするのは非効率だ)
アリシアは内心そう思ったが、口には出さなかった。
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茶会は公爵邸の大広間で行われた。
アリシアはひととおり顔触れを確認してから、最初に声をかけてきた伯爵夫人の方へ向いた。五十代、扇を持つ手に慣れた社交の人間だと一目で分かる。
「あなたがランベルト公爵家のご令嬢? ディアス様のところへ来られたとか」
「はい。アリシア・フォン・ランベルトと申します」
「まあ。それで、正式にはどういうお立場で?」
一瞬、止まった。
(立場。そうだ、まだ正式に決まっていない)
給料の話は何度か出た。「明日しよう」と言われ続けて、まだそのままだ。書類も肩書きも、何も決まっていない。
「……現在、調整中です」
夫人が少し首を傾けた。品定めするような間があって、それから扇をゆっくりと扇いだ。
「そう。まあ、ディアス様のお眼鏡にかなった方なら」
「財務と商業の改善を担当しております。詳細はもう少し後に」
曖昧な答えになった。自分の立場を一言で言えない。アリシアの人生で、珍しいことだった。
(田中アリサの頃も、入社直後は名刺がなかった。あの時と同じだ)
広間の少し離れた場所で、ディアスがグラスを持って別の貴族と話しているのが視界の端に映った。こちらを見ていた気がしたが、目が合う前に視線を戻した。
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その頃、ディアスは半分上の空だった。
話しかけてきた男爵の話に相槌を打ちながら、視線だけはアリシアを追っていた。
伯爵夫人に「お立場は?」と聞かれて、アリシアが一瞬止まったのが見えた。
(何と言うんだろう)
公爵家に雇われた、と言うのか。世話になっている、と言うのか。
自分でも気づかないうちに、答えを待っていた。
「……現在、調整中です」
アリシアはそう答えて、何事もなかったように次の話題へ移った。
(調整中、か)
正しい答えだ。契約も肩書きも、まだ正式に決まっていない。ただ、それが正しい答えだと分かっていても、どこかが少し引っかかった。自分でも理由がよく分からなかった。
「公爵様?」
隣の男爵が怪訝な顔をしていた。
「……失礼、続きをどうぞ」
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伯爵夫人と話を終えて、アリシアは広間を軽く見回した。
(情報収集をしておこう)
田中アリサの頃の癖だ。会食の場では話すより観察する方が得るものが多い。誰が誰と話しているか、誰が誰を避けているか。人の配置は、その場の力関係を正直に映す。
視線を動かしていると、こちらに向かってくる人物に気づいた。三十代、細身で眼鏡をかけた男だ。歩き方に迷いがない。目的があってこちらに来ている。
(セバスチャンから聞いた顔だ)
ハルト男爵。クロイツで最も商業に詳しい貴族で、独自の流通網を持つ。慎重な人物で、自分から動くことは滅多にないとも聞いていた。
「ランベルト殿。南の交易路の件、耳にしました」
「ヴァルターから話が回ってきたんですが」と男爵は続けた。「通行税の免除、誰の案ですか」
「私です」
「なるほど」男爵が少し考えるような顔をした。「三年間、誰も手をつけなかった問題ですよ。なぜ免除という発想が出たのか、聞いても構いませんか」
「評判が問題なら、評判が変わるまでのコストを領主が負担する。それだけです。商人が動ける状態を作れば、あとは自然に動く」
「……地図と収支報告書から判断したと?」
「三年分のデータがあれば分かることです」
(この人は、答えが出るたびに次の質問を用意している)
田中アリサとして会社にいた頃、できる上司はこういう聞き方をした。答えを確認しながら、同時に相手の思考の深さを測っている。ハルト男爵はそういう人間だとアリシアには分かった。
男爵がゆっくりと頷いた。
「一つ聞いていいですか。織物の流通改革を進めているとも聞きましたが」
「試験運用を始めたところです。職人から王都の商会へ直接つなぐルートを一本作る。中間業者を切るのではなく、選択肢を増やす形で」
「……中間業者が自分から条件を見直す、という狙いですか」
「はい。競争が生まれれば、市場が整います」
男爵がしばらく黙った。
(考えている。これは脈がある)
前世の商談でも、この間は悪い沈黙じゃなかった。相手が本気で計算しているときの間だ。
「来月、数字が出たら」と彼はゆっくり言った。「うちの流通とも話をしたい。正式に」
「ぜひ。数字が出たらこちらからご連絡します」
「楽しみにしています」
男爵が一礼して離れていった。
ふと顔を上げると、広間の向こうでディアスがこちらを見ていた。目が合った。ディアスが少し眉を上げた。「よくやった」とでも言いたいような顔だった。
(何の顔だろう)
アリシアには意味が分からなかったので、会釈だけ返した。
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茶会が終わって、帰り際にディアスが隣に来た。
「ハルトと話せたね」
「来月、流通の件で改めて話し合いになりそうです」
「それより」ディアスが少し声を落とした。「立場の件、明日ちゃんと決めよう。夫人に聞かれたの、聞こえてた」
「問題ありませんでした。調整中と答えたので」
「君は困ってなかったかもしれないけど、俺が困った」
アリシアはその言葉の意味を一瞬考えて、「そうですか」と答えた。
(雇用主として体裁が悪かったということだろう。それは確かに申し訳なかった)
「明日、時間をください」
「うん。それと」ディアスが歩きながら言った。「今夜の社交、うまくやってたね」
「得意ではないので、相手が何を聞きたいかだけ考えていました」
「……そういうところが」
「また言いかけましたね」
「今回は言う」ディアスが少し笑った。「放っておけないんだよ、君のことが」
アリシアは三秒、考えた。
(放っておけない。雇用主として、ということだろう。優秀な人材を手放したくないという意味で、それは理解できる)
「ありがとうございます。引き続きよろしくお願いします」
ディアスが何とも言えない顔をした。
「……うん」
彼は先に歩いていった。アリシアはその背中を見ながら、明日の契約内容について考え始めた。




