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元社畜令嬢、婚約破棄されたので隣国で本気出します  作者: ハル


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第五話 「名前が広まる」

 ヴァルターが来てから十日後、アリシアは三人目の商人と向き合っていた。


 応接室の椅子が、すっかり馴染んできた気がする。


 (前世でも営業対応は苦手じゃなかった。相手が何を求めているかを聞いて、数字で返す。それだけだ)


 今日の相手は織物商のリーデル商会、当主のクラウスという男だった。四十代、細身で神経質そうな印象だが、話し方は正確で、持ってきた資料も整理されている。仕事のできる商人だとすぐ分かった。


 「ヴァルター殿から聞きました」とクラウスは言った。「南の道のこと、それから、あなたのことを」


 「どんなふうに」


 「令嬢が馬車から降りて三十秒で屋敷の経営を読んだ、と」


 (あの商人、そういう話し方をするのか)


 「少し誇張があります」とアリシアは言った。「三十秒ではなく、三分ほどかかりました」


 クラウスが少しだけ笑った。


 「織物の流通で困っていることがあります。聞いてもらえますか」


━━━━━━━━━━━


 話を聞くと、問題は単純だった。


 クロイツ領で生産される織物は品質が高いが、王都まで運ぶ途中に中間業者が三社入っていて、そのたびにマージンが抜かれる。結果として生産者の手元に残る利益が薄く、職人が後継者を育てる余裕がない。十年後には技術が失われるかもしれない、という話だった。


 (中抜き問題か。これも前世で見た構造だ)


 「中間業者を減らすのは難しいですか」とアリシアが聞いた。


 「関係が長いので、急に切るのは……」


 「切らなくていいです。直販ルートを一本作る。既存の業者はそのままにして、別の選択肢を用意する。生産者が選べる状態にすれば、中間業者も自然に条件を見直します」


 クラウスがじっとアリシアを見た。


 「……直販ルートを、どこに」


 「王都の商会に伝手はありますか。一社でいい。そこと直接契約を結べれば、試験的に動かせます」


 「一社なら……ないわけではありませんが」


 「では動けます」アリシアは紙を引き寄せて、羽ペンを取った。「段取りを整理しましょう。まず確認したいのは——」


 クラウスが書類を取り出した。アリシアが求める前に、必要な数字を持っていた。


 (準備がいい。この人は本気だ)


━━━━━━━━━━━


 一時間後、クラウスが帰った。


 セバスチャンが茶を持って入ってきた。


 「今週、三人目ですね」


 「そうですね」


 「先週までは月に一度も商人が来ることはなかったのですが」


 アリシアはカップを受け取った。温かい。


 「ヴァルター殿の話が広まっているんでしょう」


 「それだけではないと思います」セバスチャンが少し間を置いた。「アリシア様と話した商人が、また別の商人を連れてくる。そういう動きが出ています」


 (口コミか)


 田中アリサとして働いていた頃、信頼は時間をかけて積み上げるものだと思っていた。でも実際は、最初の一人がちゃんと動けば、あとは自然に連鎖する。


 「セバスチャンさん」


 「はい」


 「来週、織物商との打ち合わせがあります。直販ルートの試験運用について、公爵様に話を通してもらえますか」


 「かしこまりました」家令が頭を下げかけて、止まった。「……いつも思うのですが、アリシア様は公爵様に直接話されれば早いのでは」


 「筋を通した方がいいです」


 「公爵様は形式を気にされる方ではありませんが」


 「私が気にします」


 セバスチャンがまた、あの何とも言えない表情をした。アリシアにはまだその意味が読めなかった。


━━━━━━━━━━━


 夜、廊下を歩いていたらディアスとすれ違った。


 「商人、また来てたね」


 「三人目です。来週も一人来ます」


 「セバスチャンから聞いた。織物の流通改革」


 「試験的にやってみます。失敗したら報告します」


 ディアスが少し眉を上げた。


 「失敗の話を先にするの」


 「成功するとは限らないので」


 「……そういうところが」と、ディアスが言いかけて止まった。


 「何ですか」


 「いや。おやすみ」


 彼は廊下の奥へ歩いていった。


 (そういうところが、何だろう)


 田中アリサの部分が少し引っかかったが、考えても分からないのでやめた。明日、織物商への返答を整理しなければならない。



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