第三十八話 「そういうところが」
休養一日目、朝。
アリシアは、庭を歩いていた。
クラーラの予定表には「朝、庭を歩く(一刻)」と書かれている。アリシアは、それを、正確に実行していた。
東の花壇から、噴水を回って、薔薇の垣根に沿って、また東の花壇へ。同じ経路を、三周した。所要時間はほぼ同じだった。
四周目に入ったところで、庭師が声をかけてきた。
「アリシア様。……何か、お探しですか」
「いえ。歩いています」
「はあ」
「一刻、歩くことになっているのです」
庭師は、しばらく黙っていた。
「……あの、散歩というのは、その、もう少し、ゆっくりで、よろしいのでは」
「ゆっくり」
「はい」
「歩く速度に、規定があるのですか」
「規定はございませんが」庭師は、帽子を脱いで、頭を掻いた。「アリシア様は今、大変、速いです」
アリシアは、足を止めた。
自分の足元を見た。それから、来た道を振り返った。三周と半分。距離にして、おそらく——
「……計算していました」
「はあ」
「歩数を」
庭師は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、その日の午後、彼が薔薇の垣根の途中に、小さな木の椅子を一脚、増やしていたことを、アリシアはあとで知った。
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二日目、湖。
クラーラの予定表には「午後、湖まで馬車を出す(三刻)」と書かれていた。
湖は、屋敷から半刻ほどの場所にあった。水面が、驚くほど静かだった。風が渡るたびに、光がばらばらに割れて、また戻る。
アリシアは、岸辺に立って、それを見ていた。
十五分ほど、見ていた。
「クラーラ」
「はい」
「これは、何をする場所なのですか」
「……何も、しない場所でございます」
「では、私は、今、何をしているのですか」
「何も、なさっていません」
「そう、ですか」
アリシアは、また水面に目を戻した。
落ち着かなかった。
この時間で、何ができるかを、考えていた。半刻あれば、下半期予算案の第三項まで検算できる。三刻あれば、ヴァルナ側から届いた輸送実績の照合が終わる。その間、この水面は、ずっとこのままだ。何も生まない。何も減らない。
——何も、生まない。
その事実が、なぜか、少しだけ、胸に引っかかった。
自分は、何かを生まない時間を、生きたことがあっただろうか。
「アリシア様」
クラーラが、隣に来た。
「お聞きしてよろしいですか」
「なんですか」
「今、退屈でいらっしゃいますか」
アリシアは、少し考えた。
「……分かりません」
「分からない、とは」
「退屈というものを、私は、たぶん、知りません」
クラーラは、答えなかった。
ただ、しばらくして、小さく息を吐いた。それは、ため息のようでもあり、そうでないようでもあった。
「では、覚えていってくださいませ」
「覚えるものですか、これは」
「はい。順番に」
クラーラは、湖の方を向いたまま、言った。
「『ただいま』も、覚えられたではありませんか」
アリシアは、何も返せなかった。
水面が、また、割れて、戻った。
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三日目。
ディアスの予想は、半分当たっていた。
三日目の朝、アリシアは執務室の扉の前に立っていた。手には、何も持っていなかった。ただ、立っていた。
中に入りたい、というより、入らないことを、自分に説明できなかった。
扉の前で、四半刻。
その間に、セバスチャンが二度、廊下を通った。二度とも、何も言わずに通り過ぎた。
三度目に通ったとき、家令は足を止めた。
「アリシア様」
「……セバスチャン」
「本日は、三日目でございます」
「知っています」
「日没まで、あと五刻ほどかと」
「……そうですね」
「では、日没まで」
セバスチャンは、深く礼をして、去っていった。
アリシアは、扉から手を離した。
結局、その日、彼女は一度も執務室に入らなかった。
三日、全力で休んだ。命令だったからだ。
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日が、落ちた。
クラーラが来て、「閣下がお呼びです」と告げた。場所は、庭だという。
アリシアは、少し驚いた。夜の庭に呼ばれたことは、なかった。
「業務の話でしょうか」
「存じません」
「三日目は、まだ終わっていません」
「日没は、過ぎております」
クラーラは、そう言って、扉を開けた。
開けたあと、なぜか、そのまま動かなかった。
「クラーラ?」
「……いえ」
侍女は、目を伏せた。
「行ってらっしゃいませ」
その声が、いつもより、少しだけ、固かった。
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庭には、灯りが二つだけ灯っていた。
ディアスは、いつもの椅子に座っていた。だが、今日は、酒も、書類も、何も持っていなかった。ただ、座っていた。
「三日、終わったな」
「はい」
「どうだった」
アリシアは、正直に答えることにした。
「二日目の午後が、いちばん、つらかったです」
「湖か」
「はい。……何も生まない時間だと思いました。それが、こんなに落ち着かないものだとは、知りませんでした」
「そうか」
ディアスは、笑わなかった。
いつもなら、ここで何か軽口を挟む。飄々と、はぐらかす。この人は、そういう人だった。
だが、今日は、そうしなかった。
「アリシア」
「はい」
「座ってくれ」
アリシアは、隣の椅子に座った。前は、座らなかった。今日は、座った。自分でも、なぜかは分からなかった。
しばらく、沈黙があった。
虫の声が、どこかでしていた。
「一つ、思い出してほしいことがある」ディアスが言った。「お前がここへ来て、二月ほど経った頃だ。夜の廊下で、織物商の話をした」
「……覚えています」
「あのとき、私は言いかけて、止めた」
アリシアの胸の奥で、何かが、小さく引っかかった。
「『そういうところが』、ですね」
「そうだ」
「あれから、何度か、言いかけては止めておられました」
「四回だ」
「……数えておられたのですか」
「数えていた」
ディアスは、庭の暗がりを見ていた。
「二度目と、三度目は、途中まで言った。『放っておけない』と」
「はい。覚えています」
「あれは、嘘だ」
アリシアは、彼を見た。
「——嘘、ですか」
「いや」
ディアスは、首を振った。
「嘘ではない。放っておけないのは、本当だ。……ただ、あれは、いちばん近いところで止めた言葉だ。その先を言うと、お前が困ると思った」
「困る」
「困るだろう」
彼は、こちらを向いた。
灯りが、彼の顔の半分を照らしていた。
いつもの、何を考えているか分からない顔ではなかった。
「アリシア」
「……はい」
「そういうところが、好きだ」
庭の音が、消えた。
いや、消えてはいない。虫は鳴いている。風も動いている。ただ、アリシアの耳に、それが入ってこなくなった。
「失敗の話を先にするところが、好きだ」
彼は、目を逸らさなかった。
「相手が何を聞きたいかだけを考えて社交を切り抜けるところが、好きだ。何をやっても損得で動くくせに、自分の得だけは一度も勘定に入れないところが、好きだ。褒められると、必ず『仕事ですから』と言って、話を仕事に戻すところが」
「閣下」
「言わせてくれ。七年、言わなかった」
アリシアは、口を閉じた。
「七年前、ヴァルナの夜会で、お前を見た。誰も、お前を見ていなかった。お前も、誰も見ていなかった。ただ、書類を読んでいた。……あの日から、ずっとだ」
風が、灯りを揺らした。
「他の人間は、私に顔を作る。クロイツ公爵に向けた顔だ。お前だけが、そうしなかった。お前は、私を見なかった。私の屋敷の、問題を見た」
彼は、少しだけ、笑った。
今日、初めて笑った。
「腹が立つほど、まっすぐだった」
アリシアは、動けなかった。
何か、返さなければならない。
そう思った。だから、いつものように、言葉を探した。
——業務上の返答であれば、組み立てられる。感謝の意を示し、しかし現状の職務範囲を踏まえ、次のように整理し。
だめだった。
組み上がらなかった。どこにも、はまらなかった。
この言葉を、どこに置けばいいのか、分からなかった。
喉の奥が、熱かった。息が、うまく吸えなかった。仕事で追い詰められたときにも、こんなふうにはならなかった。徹夜の三日目でも、飢饉の報告書を前にしたときでも、婚約を破棄されたあの夜でさえ、こんなふうには。
「……申し訳ありません」
やっと出てきたのは、それだった。
「なぜ、謝る」
「処理が、できません」
アリシアは、膝の上で、指を握った。
「私は、いま、この件を、どう処理していいのか、分かりません」
自分でも、ひどい返事だと思った。
人生で最も誠実に告げられた言葉を、「処理」しようとしている。案件のように。
これでは、本当に、人間らしくない。
——ああ。
あの言葉が、今になって、初めて痛かった。
ヴァルナの夜、レオナルドに言われたときには、何も感じなかった。父に庇われたときにも、笑って断ったときにも、痛まなかった。
なぜ、今なのだろう。
「アリシア」
ディアスの声は、静かだった。
「処理しなくていい」
「……え」
「これは、案件じゃない」
彼は、椅子の背に、体を預けた。
「答えを出せとも言っていない。お前が今、それを右から左に処理して『承知しました』と言ったら、私はたぶん、しばらく口をきかない」
「……それは」
「困るだろう」
「困ります」
「そうだろうな」
ディアスは、また、少し笑った。
アリシアは、深く、息を吸った。
やっと、吸えた。
「……少し、時間をください」
言ってから、また、自分で驚いた。
断らなかった。逃げなかった。仕事の言葉にも、しなかった。
時間をください、と言った。それは、この件を、自分の中に置いておく、という意味だった。
処理しない。捨てない。持っておく。
生まれて初めて、そういうものを、手に持った。
ディアスは、しばらく、彼女を見ていた。
それから、言った。
「七年、待った」
「……はい」
「いくらでも待つ。……ただし」
「ただし?」
「三日は、駄目だ」
「なぜ、ですか」
「三日で片付けようとするだろう、お前は」
アリシアは、口を開いた。
閉じた。
図星だった。今この瞬間、彼女の頭の片隅は、確かに「いつまでに結論を出すべきか」を計算し始めていた。
「……閣下は」
「なんだ」
「私のことを、分かりすぎです」
「七年だぞ」
ディアスは、立ち上がった。
通りすがりに、ほんの一瞬だけ、彼女の頭に手が触れた。触れたかどうかも、あやしいほどの短さだった。
「明日から、机は戻す」
「……はい」
「休養は、終わりだ。よく耐えたな」
彼は、そのまま屋敷の方へ歩いていった。
アリシアは、椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
夜の庭は、静かだった。
何も生まない時間だ、と、二日目には思った。
今は、そう思わなかった。
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その夜、アリシアは、眠れなかった。
寝台に入り、目を閉じた。段取りは完璧だった。明日は執務室に戻る。溜まった決裁が七日分。優先順位は、北部の照合、下半期予算、それから——
順番に、並べた。
並べ終わっても、眠れなかった。
寝返りを打った。
もう一度、並べ直した。
やはり、眠れなかった。
アリシアは、天井を見上げた。
前世を含めて、彼女が眠れなかった夜は、数えるほどしかない。そのすべてが、仕事のせいだった。締切、数字、失敗、報告。眠れない理由は、いつも明確で、いつも処理可能だった。
今夜は、違った。
理由が、分からなかった。
いや——分からない、というのは、正しくない。
理由は、一つしかない。
彼女は、それを認めることが、できなかっただけだ。
「……仕事の、話ではない」
声に出してみた。
誰も、聞いていなかった。
アリシアは、両手で顔を覆った。
その手が、少し、熱かった。
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同じ夜、廊下で。
「クラーラ」
「セバスチャン様」
「東の棟の灯りが、まだ点いている」
「はい」
「……書類は、渡していないな」
「一枚も」
家令は、しばらく黙っていた。
「では、眠れておられぬのだな」
「はい」
クラーラは、廊下の窓の外を見た。
「初めてでございます。お仕事以外の理由で、あの方の灯りが点いているのは」
セバスチャンは、答えなかった。
ただ、その口元が、ほんのわずかに、動いた。
「……クラーラ」
「はい」
「明日の朝は、少し、遅く起こして差し上げなさい」
「承知いたしました」
二人は、そのまま、別々の方向へ歩き出した。
しばらく行って、クラーラが、ふと足を止めた。
「セバスチャン様」
「なんだ」
「わたくしは、あの方に、お仕えして良かったと思っております」
家令は、振り返らずに、答えた。
「知っている」
東の棟の灯りは、まだ、消えなかった。




