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元社畜令嬢、婚約破棄されたので隣国で本気出します  作者: ハル


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第三十九話 「答えの出ない案件」

翌朝、クラーラは言いつけどおり、いつもより遅く部屋を訪れた。


 アリシアは、いつもの時刻に、自分で起きていた。身支度も、済んでいた。


 「おはようございます、クラーラ」


 「……おはようございます」


 「今日は、遅いのですね」


 「はい」


 クラーラは、それ以上、説明しなかった。


 なぜ、と聞きかけて、アリシアは、やめた。


 理由を辿れば、話は昨夜に行き着く。それくらいは、分かった。


 いつもなら、聞いていた。理由の分からないことを、確かめずに済ませた朝は、この屋敷に来てから、一度もなかった。


 今日は、聞かなかった。


━━━━━━━━━━━


 執務室に戻ったアリシアは、速かった。


 溜まっていた決裁は、七日分。昼を待たずに、三日分が消えた。


 クラーラは、その日、四度、お茶を替えた。四度とも、碗はほとんど減らないまま、冷めていた。


 五度目を運んだとき、クラーラは、盆を置いて、言った。


 「アリシア様」


 「なんですか」


 「お速い、です」


 「溜まっていましたから」


 「昨日までの三日分を、取り返しておいでですか」


 「……いえ」


 アリシアの手が、一瞬、止まった。


 「取り返しているのは、三日分では、ない気がします」


 自分で言って、自分で、意味が分からなかった。


 クラーラは、それ以上、聞かなかった。ただ、冷めた碗を下げて、新しいお茶を、書類から少し離れたところに置いた。


━━━━━━━━━━━


 午後、閣下への定時報告があった。


 ディアスは、普段通りだった。


 完璧に、普段通りだった。


 「北部の照合、終わりました。誤差は三件。いずれも先方の写しの誤りで、実害はありません」


 「早いな」


 「溜めましたから」


 「私が溜めさせた」


 「命令でしたから」


 「そうだ。いい命令だった」


 いつもの応酬だった。速さも、温度も、間の取り方も、いつも通りだった。


 だから、調子が狂った。


 アリシアは、下半期予算の説明の途中で、数字を一度、言い間違えた。


 「——第三項の繰越が、二千八百……いえ」


 紙を見た。


 「二千三百です。失礼しました」


 「うん」


 ディアスは、書類から目を上げなかった。


 「お前が数字を言い間違えるのは、初めて見た」


 「……お忘れください」


 「覚えておく」


 それだけだった。


 それ以上は、何も言わなかった。急かさない。触れない。揺らさない。三日どころか、あの夜のことなど初めから無かったかのような顔で、彼は次の書類に署名した。


 七年待った、と言った男は、本当に、待つつもりらしかった。


 報告を終えて廊下に出たとき、アリシアは、自分が妙に疲れていることに気づいた。


 いつも通りの相手と、いつも通りの話をした。それだけだ。


 その「いつも通り」が、今日は、いちばん、処理に困った。


━━━━━━━━━━━


 その夜、アリシアは、自室の机に向かった。


 仕事は、持ち帰っていない。一枚も。


 代わりに、白い紙を一枚、置いた。


 ——これは、案件じゃない。


 そう、言われた。覚えている。


 だが、アリシアには、それ以外の道具がなかった。物事を考えるとき、彼女はいつも、紙に書いて、並べて、比べてきた。王国の財政も、クロイツの農地も、北部の手形も、全部そうやって解いてきた。書けば、解けた。例外は、なかった。


 だから、書いた。


 まず、件名。


 ペンが、止まった。


 件名に、何と書けばいいのか、分からなかった。


 ……空欄のまま、先へ進んだ。


 紙の真ん中に線を引き、左右に分けた。受ける場合。受けない場合。


 書けることは、いくらでもあった。顧問契約の扱い。公爵夫人の職務との兼務の前例。社交上の影響。ヴァルナとの経済連携の継続性。書いた。整理した。漏れを潰した。


 半刻後、表は、完成した。


 完璧な表だった。


 論点は網羅され、影響は整理され、どこにも抜けがなかった。我ながら、いい表だった。このまま会議に出せば、資料として通る。


 アリシアは、それを、じっと見た。


 どこにも、答えがなかった。


 右の列が長くても、左の列が長くても——あの夜の言葉への答えとは、何の関係もなかった。


 ——そういうところが、好きだ。


 あの言葉は、この表の、どの行にも、入らなかった。


 分析は、終わっている。結論が、出ない。


 そんなことは、生まれて初めてだった。


 前の人生を、含めてもだ。締切も、予算も、飢饉も、婚約破棄さえも、分析すれば必ず「次にやること」が出てきた。出てこなかったことは、ただの一度も、なかった。


 アリシアは、ペンを置いた。


 手元にある唯一の道具が、通用しない場所に、自分は立っている。


 それが、分かっただけだった。


━━━━━━━━━━━


 扉が、鳴った。


 クラーラが、白湯を持って入ってきた。


 アリシアは——紙を、伏せた。


 手が、勝手に動いた。伏せてから、自分で驚いた。彼女は今まで、クラーラに書き物を隠したことなど、一度もなかった。


 クラーラは、盆を置いた。伏せられた紙を見て、何も言わなかった。ただ、白湯の碗を、いつもより少しだけ、紙から遠くに置いた。


 「クラーラ」


 「はい」


 「聞いても、いいですか」


 「どうぞ」


 「……こういうものは、何で決めるのですか」


 主語のない質問だった。


 クラーラは、聞き返さなかった。


 「考えて決めるものでは、なかったと思います。わたくしの知る限り」


 「考えずに、どうやって決めるのですか」


 「気づいたときには、決まっておりました」


 「……それは、順序がおかしい」


 「はい。もともと、おかしいのです、こういうものは」


 クラーラは、当たり前の伝票を読み上げるように言った。


 「わたくしが、アリシア様にお仕えしたいと思ったときも、そうでございました。理由は、あとからいくらでも見つかりました。ですが、決まったのが、先です」


 アリシアは、伏せた紙の端を見た。


 「では、理由を並べるのは……意味が、ないのですか」


 「意味は、あると思います」


 「どんな」


 「並べ終わって、それでも決まらなかったと、お分かりになりました」


 アリシアは、黙った。


 反論は、浮かばなかった。事実、その通りだったからだ。


 クラーラは、礼をして、扉へ向かった。


 扉のところで、一度だけ、振り返った。


 「アリシア様」


 「……なんですか」


 「その紙は、お捨てにならないのですね」


 アリシアは、伏せた紙の上に、手を置いた。


 「……ええ」


 「さようでございますか」


 クラーラは、それだけ言って、出ていった。


 廊下を遠ざかる足音が、いつもより、少しだけ軽い気がした。


━━━━━━━━━━━


 翌日の午後。


 北部から、照会が一件、上がってきた。入札制度の運用で、新規の業者が二社、共同で入札に加わりたいという申請。前例がない。認めるか、認めないか。


 判断の要る案件だった。アリシアの、いちばん得意な種類の仕事だった。


 資料を広げ、数字を並べ、論点を三つに整理して——そこで、ふと、思った。


 この件、閣下なら、どう仰るだろうか。


 それ自体は、いつものことだった。判断の要る案件は、最終的に閣下の決裁が要る。彼の判断の癖を読んでおくのは、顧問の仕事のうちだ。


 だが、次の瞬間、アリシアは、気づいた。


 昨夜からずっと——あの表を前にしていたときも、白湯が冷めていくのを見ていたときも、今朝、廊下ですれ違って会釈を交わしたときも。


 頭のどこかで、ずっと、同じことを考えていた。


 あの人なら、何と言うだろうか。


 悩みの相手に、悩みの相談をしようとしている。


 ペン先から、インクが一滴、落ちた。


 論点を三つに整理した紙の、ちょうど真ん中で、黒い点が、ゆっくりと広がった。


 アリシアは、動けなかった。


 相談したい相手が、案件そのものである場合、どこに相談を持ち込めばいいのか。


 誰も、教えてくれなかった。五年間の王宮でも、前の人生でも、そんな項目は、どの手引きにもなかった。


 当然だった。


 ——これは、案件では、ないのだから。


 窓の外で、庭師が薔薇の垣根を整える鋏の音がしていた。


 アリシアは、インクの染みが乾いていくのを、ただ、見ていた。


 時間をください、と言ったのは、自分だ。


 その時間で何をすればいいのかだけが、どこにも、書いていなかった。


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