第三十七話 「ただいま」
馬車が国境を越えたのは、四日目の昼だった。
景色が変わる。ヴァルナの整然とした街道から、クロイツの、少し雑然とした、けれど活気のある道へ。荷馬車の数が増えた。道の脇で、商人が声を張り上げている。麻布の卸だ。半年前に取引を止めかけた、あの業種だった。
アリシアは、窓の外を見ながら、無意識に数えていた。
荷馬車、十二台。うち、北部からの積み荷が七台。前に通ったときは、四台だった。
「顔が、仕事に戻っているぞ」
向かいの席から、ディアスが言った。
「……数えていました」
「知っている」
彼は、それ以上は言わなかった。ただ、少し笑った。
━━━━━━━━━━━
公爵邸の門をくぐったとき、アリシアは、思わず馬車の中で身を固くした。
人が、出ていた。
門から玄関までの道の両脇に、屋敷の人間が並んでいた。家令のセバスチャン。侍女頭。厨房の者たち。庭師。馬丁。数えたことのなかった顔が、そこにいた。
「……何かの、行事ですか」
「出迎えだ」
「私は、公務から戻っただけです。公爵閣下のお帰りであれば、分かりますが」
「アリシア」
ディアスが、扉に手をかけながら言った。
「お前が思っているより、この屋敷の人間は、お前が留守の間、落ち着かなかったんだ」
馬車の扉が開く。
最初に降りたディアスに、一斉に礼が向けられた。深く、揃った、いつも通りの礼だった。
それから、アリシアが降りた。
同じ礼が、もう一度、向けられた。
――そこまでは、良かった。そこまでは、屋敷の作法だ。主家の客人であれ顧問であれ、迎える者には迎える形がある。アリシアは、それを知っていた。だから、いつものように、軽く頷いて、玄関へ歩き出そうとした。
「お帰りなさいませ」
列の端から、声がした。
厨房の、若い娘だった。礼の姿勢のまま、俯いたまま、そう言った。誰かに命じられた唱和ではなかった。声が、少し、上ずっていた。
それが、きっかけだった。
「お帰りなさいませ」
「……お帰りなさいませ、アリシア様」
「お帰りなさいませ」
揃ってはいなかった。ばらばらだった。庭師が、馬丁が、洗濯場の女たちが、順番も間も無視して、それぞれの声で言った。門から玄関までの列が、端から端まで、その言葉で埋まっていった。
アリシアは、足を止めた。
――礼は、業務だ。作法だ。命じられればできる。
だが、この言葉は、誰にも命じられていない。
命じられていないことを、この人たちは、なぜ、しているのか。
処理が、追いつかなかった。
「アリシア様」
セバスチャンが、前に進み出た。いつもの通り、背筋が伸びている。いつもの通り、表情はほとんど動かない。
ただ、その手に持った書類の束が、少しだけ、震えていた。
「お帰りをお待ちしておりました」
「……セバスチャン」
「北部の輸送費の件、ヴァルナ側の数字が届いております。ご報告は、明日で構いません」
「今、聞きます」
「明日で構いません」
珍しく、家令が食い下がった。
アリシアは、少し、面食らった。
それから、口を開いた。何か、返さなければいけないと思った。報告を受けるでも、指示を出すでもない、この場に合った言葉を。
探した。
見つからなかった。
――いや。
一つだけ、口の中に、勝手に転がってきたものがあった。
どこから来たのか、分からなかった。今世で、口にした覚えのない言葉だった。生まれてから一度も。
けれど、それは、確かに知っている言葉だった。
「……ただいま、戻りました」
言ってから、アリシアは、自分で驚いた。
声が、思ったより、柔らかかった。
セバスチャンが、深く頭を下げた。
「おかえりなさいませ」
その声も、いつもより、わずかに低かった。
列のあちこちから、また声が上がった。今度は、さっきより大きかった。
アリシアは、それを、どう受け取っていいのか、やはり分からないままだった。分からないまま、けれど、逃げずに、そこに立っていた。
少し後ろで、ディアスが、こちらを見ていた。
彼が何を見ているのか、アリシアは、気づかなかった。
━━━━━━━━━━━
その日の夕方、アリシアは執務室に入り、机の上を見て、眉を寄せた。
何も、なかった。
書類が、一枚もない。留守にしていた間の決裁が、山になっているはずだった。実際、出発前は、そのつもりで引き継ぎを組んでいた。
「セバスチャン」
「はい」
「私の机の上のものは、どこに」
「閣下のご指示で、下げております」
「下げて……?」
「三日分ほどは、私と会計方で処理いたしました。残りは、急ぎではございません。閣下は、『三日、触らせるな』と」
アリシアは、しばらく、その言葉の意味を考えた。
「――業務命令、ということですか」
「そのように、承っております」
「理由は」
「ご本人に、お尋ねください」
セバスチャンは、それだけ言うと、丁寧に礼をして、部屋を出ていった。
アリシアは、空の机の前に、立ち尽くした。
━━━━━━━━━━━
ディアスは、庭にいた。
夕方の光が、芝の上に長い影を落としている。彼は、いつものように、何をするでもなく、そこの椅子に座っていた。この人は、こうして何もしていない時間が、本当に多い。
「閣下」
「早いな。もう見つけたのか」
「机の上の話です」
「聞いた通りだろう」
「理由をお聞かせください」
ディアスは、アリシアを見上げた。それから、隣の椅子を、軽く手で示した。
アリシアは、座らなかった。
「アリシア」
「はい」
「今日、屋敷に着いてから、何度時計を見た」
「……は?」
「何度、見た」
アリシアは、答えられなかった。数えていなかったからではない。数えるまでもなく、頻繁に見ていたと、自分でも分かっていたからだ。次の予定が入っていないことが、落ち着かなかった。空白の時間が、埋まっていないことが。
「三日だ」ディアスは言った。「三日、何もするな。これは特別顧問への、正式な業務命令だ」
「――閣下。北部の入札制度は、まだ試験導入の段階です。ヴァルナ側との数字の突き合わせも」
「セバスチャンがやる」
「クロイツの下半期の予算案は」
「会計方がやる」
「それは、私の仕事です」
「そうだ。だから、命令する」
ディアスは、まっすぐに言った。
「お前の仕事は、多すぎる。多すぎるのは、お前が有能だからじゃない。お前が、断らないからだ」
アリシアは、言葉に詰まった。
「私は」
「ヴァルナで、陛下が言っていたな。あの国が、お前を五年、埋もれさせた、と」
「……はい」
「あれは、半分しか合っていない」
ディアスは、視線を庭に戻した。
「あの国が、お前を働かせたわけじゃない。誰も命じていない。誰も、お前がやっていることを知らなかった。……知らない相手を、使い潰すことはできない」
アリシアは、黙っていた。その通りだったからだ。
誰にも頼まれていない。誰にも見られていない。ただ、目の前に問題があって、自分なら解けると分かっていた。だから、解いた。それだけのことだ。五年、その繰り返しだった。
「お前は、自分で引き受けて、自分で背負って、誰にも言わずに、五年やった」
ディアスは、静かに続けた。
「それを止められる人間は、この世に一人しかいなかった。……お前だ」
「――」
「そして、お前は、止めなかった」
風が、芝を撫でた。
「必要なことでしたから」
アリシアは、そう答えた。当たり前のことを聞かれた、という顔で。
「……そうだろうな」
ディアスは、目を閉じた。
「だから、質が悪い」
「質が」
「命じられて働く人間は、命令が止めば手を止める。誰かに搾り取られている人間は、搾る側がいなくなれば助かる。……だが、お前には、その相手がいない」
彼は、目を開けて、アリシアを見た。
「誰も、お前を止めない。お前も、自分を止めない。――つまり、放っておけば、お前は止まらないということだ」
アリシアの、指先が、冷えた。
「死ぬまで、な」
息が、止まった。
彼は、知らないはずだった。
前世のことも。終電の灯りも。誰にも見送られなかった、あの朝のことも。
知らないはずなのに、この人は、いま、いちばん正確なところを、まっすぐに撃ち抜いた。
「……閣下は」
声が、掠れた。
「なぜ、そんなことを、おっしゃるのですか」
「見ていたからだ」
ディアスは、それだけ言った。
「あの国は、気づかなかった。それだけでも、十分に罪だ。……だが、気づいていて、放っておく方が、もっと重い」
彼は、椅子の背に体を預けた。
「私は、気づいている。七年前から、ずっとだ」
アリシアは、動けなくなった。
喉の奥に、何かが引っかかった。
仕事の話なら、返せる。数字の話なら、いくらでも組み立てられる。だが、これは、そのどちらでもなかった。
――またか、と思った。
最近、こういうことが増えた。ヴァルナの、あの小さな部屋でも、そうだった。答えられなかった。声が震えた。自分でも驚くほどに。
「……三日、何をすればいいのですか」
やっと出てきたのは、そんな言葉だった。
ディアスが、こちらを見た。少し、目を見開いた。それから、笑った。
「そこを聞くのか、お前は」
「聞かなければ、分かりません」
「分からないのか」
「分かりません」
アリシアは、正直に言った。
「私は、休み方を、知らないのです。……前の……」
言いかけて、止めた。
前の仕事でも、そうだった。
その言葉は、飲み込んだ。飲み込んだつもりだった。
ディアスは、何も聞き返さなかった。
ただ、しばらく黙って、庭を見ていた。それから、ゆっくりと言った。
「なら、練習しろ」
「練習」
「休むのも、仕事だと思え。……そう言えば、お前は真面目にやるだろう」
アリシアは、口を開き、閉じた。
――ずるい、と思った。
そんなふうに言われたら、断れない。
「……承知しました」
「よし」
「三日間、休みます。全力で」
「その言い方が、もう心配なんだが」
━━━━━━━━━━━
部屋に戻ると、クラーラが待っていた。
「三日間の予定を、組みました」
「予定?」
「休養のご予定です」
クラーラは、涼しい顔で紙を差し出した。そこには、時刻とともに、細かく項目が書かれていた。朝、庭を歩く。昼、菓子を食べる。午後、湖まで馬車を出す。夕方、何もしない。
「……クラーラ。これは、業務予定表では」
「休養の予定表でございます」
「形式が、完全に業務予定表です」
「アリシア様は、予定表がないと落ち着かれませんので」
アリシアは、その紙を、しばらく見つめた。
この侍女は、いつの間にか、自分よりも自分のことを分かっている。
「……ありがとう」
「はい」
クラーラは、少しだけ、笑った。
「一つ、申し上げてよろしいですか」
「なんですか」
「先ほど、門で『ただいま』とおっしゃいました」
アリシアの手が、止まった。
「……言いましたね」
「はい」
「あれは、その、口が勝手に」
「存じております」
クラーラは、寝台の枕を直しながら、こちらを見ずに言った。
「わたくしは、あの言葉を、初めて聞きました。アリシア様のお口から」
「……そう、ですか」
「はい」
それきり、クラーラは何も言わなかった。
アリシアは、椅子に座って、休養の予定表を見つめていた。
ただいま、という言葉は、帰る場所がある人間が使うものだ。
自分は、どこに帰ってきたのだろう。
――考えても、答えは出なかった。ただ、それが嫌な問いではないことに、少しだけ、戸惑っていた。
━━━━━━━━━━━
同じ頃、書斎で。
「三日で足りるとお思いですか」
セバスチャンが、書類を捲りながら言った。
「足りるわけがないだろう」ディアスは、酒を注ぎながら答えた。「三日で音を上げる。四日目には机に戻っている。賭けてもいい」
「では、なぜ」
「あれは、命令されないと休まない。命令されれば、休むのも仕事だと思って全力でやる。……哀れな話だ」
ディアスは、杯を置いた。
「一つずつ、覚えさせるしかない。休み方も、休んでいい理由も」
セバスチャンは、書類を閉じた。
「閣下」
「なんだ」
「以前、申し上げましたな。そのようなやり方では、いつまで経っても伝わりません、と」
「……言われたな」
「あれから、何か月になりますか」
ディアスは、答えなかった。
窓の外を見た。庭の向こう、東の棟に、明かりが灯っている。彼女の部屋だ。
あの窓の下で、七年前、彼は初めて彼女を見た。ヴァルナの夜会の隅で、誰にも顔を向けず、ただ一人、書類を読んでいた娘。周りの人間は全員、誰かに見せるための顔を作っていた。彼女だけが、そうではなかった。
あの日から、ずっとだ。
「セバスチャン」
「はい」
「三日、休ませる。……その三日が終わったら、言う」
家令の手が、止まった。
「言う、とは」
「言葉で言えばいいと、お前が言ったんだろう。ハッキリと」
ディアスは、杯を持ち上げた。中身は、まだ半分も減っていない。
「もう、遅すぎるくらいだ」
セバスチャンは、深く、深く、頭を下げた。
顔は、上げなかった。
上げれば、あまりに嬉しそうな顔を見られてしまうと、思ったからだった。




