第三十六話 「それぞれの終わり」
裁定は、五日後に下された。
その五日の間に、王城では静かに、しかし確実に、いくつものことが調べられていた。ランベルト伯を呼び出した日の門衛の記録。その夜、王太子の私室に出入りした侍従の証言。書き残されていないはずの言葉を、覚えている者が何人もいた。
記録に残らないやり方を選んだ者は、そのことを、いつも忘れている。人は、記録ではないということを。
謁見の間に、再びアリシアとディアスは呼ばれた。今日は、報告のためではない。
玉座の前に、レオナルドが立っていた。
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「レオナルド」
国王の声は、静かだった。怒鳴りもしなければ、震えてもいなかった。
「言い分があるなら、聞こう」
「……私は、国のためを思って動きました」
レオナルドは、顔を上げてそう言った。
「北部の件は、我が国の急所です。それを他国の顧問に握られたままでいいのか。彼女が我が国に戻れば、恒久的に解決する。私は、その道筋をつけようとしただけです」
「そのために、伯爵を脅したのか」
「脅してなどおりません。家の立場を案じただけです。事実、娘が他国に仕えている家が、この先も今と同じ扱いを受けられる保証などない」
「――保証しないのは、誰だ」
国王が、初めて声を少しだけ強めた。
「その家を保証するのは、王だ。私だ。お前が、私の名を使わずに、私の臣下の家の命運を勝手に天秤にかけた。それを、なんと言うか分かるか」
レオナルドは、答えなかった。
「越権だ。しかも、私が署名した招聘状の裏で、だ。国の名で招いた客人の父親を、王族が個人的に呼びつけて圧を掛けた。これは、家の中のいざこざではない。国と国との間の話になる」
国王は、ゆっくりと立ち上がった。
「レオナルド・ヴァルナ。お前の王太子位を、解く」
間が、静まり返った。
「廃嫡だ。王籍からは外さん。それは、お前の母のために残す。だが、王位に連なる資格は、今日をもって失うものとする」
レオナルドの唇が、動いた。声にはならなかった。
彼は、周りを見た。財務卿を、重臣たちを、順に見た。誰か一人でも、口を開いてくれるはずだと思ったのだろう。この裁きは重すぎる、と。殿下にも事情があった、と。
誰も、何も言わなかった。
目を伏せる者。書類に視線を落とす者。ただ黙って前を向いている者。そのどれもが、彼を見ていなかった。
――そのとき、彼はようやく気づいたのかもしれない。
自分を庇う者が、一人もいないということに。そして、それは今日始まったことではないということに。
「……私は」
レオナルドは、掠れた声で言った。
「私は、間違ったことはしていない」
誰も、それを否定しなかった。
否定する価値さえ、もう誰も見出していなかった。
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その日の夕方、レオナルドは、エミリアの部屋を訪ねたという。
アリシアがそれを知ったのは、ずいぶん後になってからだ。
彼は、彼女に言ったらしい。王太子ではなくなった。それでも、共に来てくれるか、と。
エミリアは、しばらく黙ってから、こう答えたという。
「私には、無理です」
嘘のない声だったそうだ。
「私は、あなたに愛されたかったのではありません。あなたの隣にある場所が、欲しかったのです。……その場所が、もうないのなら、私がそこにいる理由もありません」
残酷な言葉だが、正直な言葉でもあった。彼女は、自分を偽らなかった。少なくともその一点において、彼女は最後まで、彼が愛した通りの人間だった。
レオナルドは、何も言い返せなかったという。
――後日、アリシアは王城の廊下で、一度だけエミリアと行き合った。
エミリアは足を止め、深く頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
それだけだった。言い訳も、弁明もなかった。
アリシアは、少し考えてから、答えた。
「もう、いいのです」
本当に、そう思っていた。恨みも、怒りもなかった。あの席は、もう自分のものではない。奪われたのではなく、置いてきたのだ。置いてきたものについて、誰かを責める理由はなかった。
エミリアは、もう一度頭を下げて、去っていった。
二人が、言葉を交わしたのは、それが最後だった。
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帰国の前日、アリシアは国王に呼ばれた。
小さな部屋だった。玉座も、重臣もいない。窓辺の椅子に、国王が一人で座っていた。
「かけなさい」
アリシアは、勧められた椅子に座った。
国王は、しばらく庭を見ていた。それから、静かに切り出した。
「聞きたいことがある。……この五年、ランベルト伯から届いていた助言のことだ」
アリシアの指が、膝の上で、わずかに動いた。
「南部の水利の件。関税の据え置き。飢饉の年の、備蓄の配り方。どれも、伯爵一人の頭から出たにしては、あまりに筋が良すぎた。……そして、ある時期を境に、ぱたりと止んだ」
国王は、こちらを向いた。
「その時期が、婚約破棄と重なっている」
沈黙が落ちた。
アリシアは、否定しようと思えば、できた。父の助言です、と言えば済む。そのつもりで、五年間やってきた。名前が出ないことは、はじめから前提だった。
だが、目の前の老いた王の目は、答えを求めていなかった。すでに知っている者の目だった。
「……父は、私の話を、よく聞いてくださいました」
アリシアは、それだけ言った。
国王は、長い息を吐いた。
「そうか」
その一言に、何が込められていたのか。悔恨か、怒りか、あるいは、遅すぎた納得か。
「私は、王として、多くの人間を見てきたつもりだった。だが、一番近くにあった知恵を、五年も見落としていた。……そなたを埋もれさせたのは、息子だけではない。この国だ」
「陛下」
「言い訳はせん」国王は首を振った。「結果を出せる者を、家格や立場で埋もれさせるのは、国の損失だ。そう言い続けてきたのは、私自身だからな」
国王は、椅子から身を起こした。
「そなたに、望むものを与えたい。爵位でも、王宮の席でも、望むままに。……そう言おうと思っていた」
アリシアは、背筋を伸ばした。断る言葉を、頭の中で組み立て始めていた。
だが、国王は続けた。
「やめておく」
「……え」
「昨日、廊下で、そなたが公爵と話しているのを見た」
国王の目に、初めて、笑いに近いものが浮かんだ。
「笑っておったな」
アリシアは、答えられなかった。
「私は、五年前のそなたを、何度か遠くから見ている。あの頃のそなたは、決してあんな顔はしなかった。……人が、どこにいるべきかは、その顔を見れば分かる」
国王は、まっすぐにアリシアを見た。
「幸せそうだ。ならば、クロイツにいなさい」
喉の奥が、詰まった。
仕事なら、答えられた。数字なら、返せた。だが、これは、そのどちらでもなかった。
「……ありがとう、ございます」
声が、わずかに震えた。
自分でも、驚くほどに。
「礼を言うのは、こちらだ」国王は静かに言った。「北部を救ってくれた。父の代からの臣下の娘に、二度も国を救われたな。……次に来るときは、客人としてではなく、身内として来てくれると嬉しい」
「身内、というのは」
「さあ、なんだろうな」
国王は、初めて、悪戯っぽく笑った。ディアスと長く付き合ってきた王の顔だった。
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出立の朝、ランベルト伯爵家の門前に、馬車が二台停まっていた。
父が、見送りに出ていた。
「体に気をつけろ」
「お父様も」
それだけの、短い挨拶だった。五年前、この家を出たときも、似たようなやり取りだった。あのときと違うのは、父の顔から、あの張り詰めたものが消えていることだった。
父は、それからディアスの方を向いた。
「クロイツ公」
「はい」
「娘は、渡しませんぞ」
ディアスの動きが、止まった。
「……は」
「私は、この子の父親です。この子が笑うようになったのが、貴殿のところに行ってからだということも、分かっております。感謝もしております。……ですが、それとこれとは、話が別だ」
父は、腕を組んだ。
「渡しません。少なくとも、まだ」
ディアスは、しばらく黙っていた。それから、ずいぶん久しぶりに、まともに言葉を詰まらせた顔で、こう言った。
「……善処、いたします」
「善処とは、なんですかな」
「お父様」
アリシアが、たまらず口を挟んだ。
「何の話をしているのですか」
父とディアスが、同時にアリシアを見た。それから、顔を見合わせた。
「……閣下。これは、なかなか」
「ええ。……なかなか、手強い」
「なぜ、二人で頷き合っているのですか」
馬車の脇で、クラーラが小さく肩を震わせて笑っていた。アリシアがそちらを見ると、彼女はすまし顔に戻って、「なんでもございません」と言った。
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馬車が動き出す。
窓の外を、ヴァルナの街並みが流れていく。五年間、この空の下で働いた。誰にも知られず、誰にも認められず、それでも手を止めなかった。
あの日々は、無駄だったのだろうか。
――いや。
あの五年があったから、北部を救えた。父を守れた。そして今、隣に座っている人と、笑っていられる。
アリシアは、前を向いた。
「クロイツに戻ったら、やることが山積みです」
「帰ってきて早々、それか」ディアスが呆れたように笑った。「少しは休め」
「休み方が、分からないのです」
「……知っている」
ディアスは、それ以上は言わなかった。ただ、その横顔は、どこか嬉しそうだった。彼女が「戻る」場所を、迷いなく口にしたことが。
王都の門が、後ろへ遠ざかっていく。
振り返らなかった。
振り返る理由が、もう一つもなかった。
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――同じ頃。
王城の東の離れで、一人の男が、荷をまとめていた。
訪ねてくる者は、いなかった。手紙も来なかった。昨日まで彼の言葉に頷いていた者たちは、今日、彼の名を口にしない。
レオナルドは、窓から空を見上げて、呟いた。
「なぜ、こうなった」
その問いに答えられる者は、この城に何人もいた。
だが、誰一人、彼には教えなかった。




