第三十五話 「笑顔」
謁見の間の空気は、朝から張り詰めていた。
高い天井から差し込む光が、磨き上げられた床に長い筋を落としている。玉座には国王が座り、その傍らに財務卿と数名の重臣が控えていた。正面には、ディアス。そしてその半歩後ろに、アリシアが立っていた。
名目は、経済連携の進捗報告。だが、この場にいる誰もが、それだけでは終わらないことを、どこかで察しているようだった。
「よく来てくれた、クロイツ公」
国王が口を開いた。穏やかな声だった。
「北部の件、財務卿から報告を受けている。試験導入は、こちらの予想を超える速さで動いているとか」
「陛下のご決断が早かったからです」
ディアスは軽く頭を下げてから、傍らのアリシアに視線を送った。数字の話になれば、この場の主役は彼女だった。
「詳細は、顧問より」
アリシアは一歩前に出た。手には、一枚の紙。それだけだった。
「北部第三区で入札制度の試験導入を始めて、七日が経ちました」
静かな声が、広い間によく通った。
「これまで一社が独占していた輸送区間に、三社を競わせました。結果、通行にかかる費用は、平均で二割八分下がっています。下がった分は、そのまま商人の仕入れ値に反映されます」
財務卿が、身を乗り出した。
「二割八分……試算では、二割程度と見ていたが」
「二割は、輸送費だけの話です」アリシアは紙を差し出した。「実際には、費用が下がると見越して、これまで手形でしのいでいた商人が現金の取引に戻り始めています。手形が減れば、貸し倒れの連鎖が起きる危険も減る。数字に出にくい部分ですが、こちらの方が、本当は大きい」
財務卿は紙を受け取り、指でその数字をなぞった。ひとつ、ひとつ、確かめるように。
「……確かに、合っている」
彼はそう言ったきり、しばらく黙り込んだ。反論の言葉を探して、見つからなかった顔だった。
国王が、小さく息を吐いた。それは感嘆に近い息だった。
「たった七日で、そこまで見えるものか」
「見えるのではありません」アリシアは静かに答えた。「同じことが、以前にもあったからです。似た形の綻びを、前に一度、直したことがあります。それだけです」
――以前。
その一言に、国王の目が、わずかに細くなった。
以前とは、いつのことだ。どこの話だ。この令嬢は、他国から来たばかりのはずではなかったか。国王の頭の中で、いくつかの点が、静かに線を結び始めていた。ここ数年、ランベルト伯から届いていた助言。その質が、ある時期を境に、ぱたりと落ちたこと。その時期が、王太子の婚約破棄と、きれいに重なっていること。
(――もしや)
だが、国王は口には出さなかった。今は、まだ。
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報告が一段落したところで、ディアスが姿勢を正した。
「陛下。一つ、お耳に入れておきたいことがございます」
空気が、変わった。
「経済連携とは、別の話です。ですが、無関係とも言い切れません」
「申せ」
「昨夜、ランベルト伯が、王城に呼ばれております」ディアスの声は、平坦だった。「陛下の署名による招聘状。それとは別の、私的な呼び出しで」
国王の眉が、わずかに動いた。
「私的な、とは」
「呼んだのは、陛下ではございません」
ディアスは、間の端に控えていた一人へ、静かに視線を向けた。
そこに、レオナルドが立っていた。
いつからそこにいたのか。財務卿たちの陰になって、目立たぬ場所に。だが、今その名が呼ばれたことで、彼は前に出ざるを得なくなった。
「……私が、何をしたと」
レオナルドの声は、平静を装っていた。だが、その端が、わずかに硬い。
「伯爵を呼んで、近況を尋ねただけだ。旧知の臣下を労うのに、いちいち許可が要るのか」
「近況を尋ねるだけなら、結構なことです」ディアスは動じなかった。「ですが、伯爵はこう受け取られた。娘が戻らなければ、ランベルト家の立場は保証しかねる、と」
間が、静まり返った。
国王が、ゆっくりと、レオナルドの方を見た。
「レオナルド。本当か」
「……そのような言い方は、していません」
「言い方の話ではない」
国王の声は、まだ静かだった。だが、その静けさが、かえって重かった。
「私は、クロイツ公に招聘状を出した。彼女の知見を借りるためだ。国と国との、正式な話としてな。――その父親を、お前が私的に呼びつけて、家の立場を盾に脅した。もしそれが事実なら、それは、私の名で招いた客人への裏切りだ。私が、長年信を置いてきた臣下への、な」
レオナルドの顔から、血の気が引いた。
彼は、まだ理解していなかった。自分のしたことが、単なる焦りの一手ではなく、父が最も嫌う種類の背信だったということを。玉座から向けられた目の温度が、それを告げていた。
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「……アリシア」
レオナルドが、こちらを見た。すがるような目だった。
この期に及んで、彼はまだ、この場を収める鍵が彼女にあると思っているらしかった。彼女さえ頷けば、すべては元に戻ると。
「戻ってきてくれ。私が悪かった。あの時のことは……私は、間違っていた。君ほどの人を、手放すべきではなかった」
それは、五年間、一度も聞かなかった言葉だった。
どれだけ働いても、彼はアリシアを見なかった。政策提言も、外交の裏の調整も、飢饉の年の差配も、すべて名前のない誰かの仕事として流れていった。そして最後に告げたのが、「君は優秀だが、人間らしくない」だった。
その彼が、今、間違っていたと言う。
アリシアは、レオナルドを見た。
不思議と、怒りは湧かなかった。恨みも、悲しみも。ただ、ずいぶん遠いところにいる人だ、と思った。かつて自分の五年間を注いだ相手が、こんなにも遠い。
そして、気づいた。
この人は、今も、私を「戻せば元通りになる歯車」として見ている。あの頃と、何も変わっていない。
アリシアは、口を開いた。
「殿下」
その声は、穏やかだった。
「北部の件、私はお手伝いを続けます。ヴァルナが困っているなら、力は貸します。それは、この国に父がいて、私が育った国だからです」
レオナルドの表情が、わずかに緩んだ。だが、それは早すぎた。
「けれど、戻る理由にはなりません」
言葉は、静かに、しかしはっきりと落ちた。
「殿下のもとに、私の席はありません。それは、あなたが手放したからではなく、私が、もう要らないと思ったからです」
そして――アリシアは、笑った。
責めるためでも、勝ち誇るためでもなかった。ただ、そう思ったから、自然にそうなった、という笑みだった。肩の力が抜けた、静かな笑顔だった。
レオナルドは、その顔を見て、動けなくなった。
(――こんな風に、笑う人だったのか)
五年間、隣にいて、一度も見たことのない表情だった。あの頃の彼女は、いつも帳簿を睨むように、机に向かっていた。感情を見せず、必要なことだけを、正確にこなしていた。「人間らしくない」と、自分はそれを切り捨てた。
だが、違った。
彼女は、笑わなかったのではない。自分の前で、笑う理由がなかっただけだ。
その事実が、遅すぎる形で、レオナルドの胸を貫いた。
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誰も、しばらく言葉を発しなかった。
ディアスは、何も言わなかった。ただ、アリシアの横顔を見ていた。その笑みの奥にあるものが、彼にはわかった。長い間、自分の前でも彼女は決して見せなかったもの。それが、今、ようやくほどけた。
だから、嬉しかった。それを引き出したのが自分ではなく、皮肉にもこの場だったとしても、構わなかった。
国王が、椅子の背に、深く身を預けた。
その目は、もうレオナルドを見ていなかった。アリシアを見ていた。
(やはり、そうか)
ここ数年、ランベルト伯の名で届いていた、あの的確な助言の数々。国を何度も救った、名もなき知恵。その正体が、今、目の前で笑っている。息子が「人間らしくない」と切り捨て、そして今、失って初めてその価値に気づいた――この令嬢だったのだ。
確信は、もう揺るがなかった。
だが、国王はそれを、まだ口にはしなかった。言うべき時が、別にある。今日は、その手前でいい。
「クロイツ公」
国王は、静かに言った。
「此度の件、しかと聞いた。……調べるべきことは、調べさせてもらう。少し、時間をくれ」
それが、何を意味するのか。この場の誰もが、理解していた。
レオナルドだけが、まだ、自分の足元が崩れ始めていることに、気づいていなかった。
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謁見の間を出ると、廊下の窓から、昼の光が差し込んでいた。
「……疲れたか」
ディアスが、隣で言った。
「いえ」アリシアは首を振った。「思っていたより、何ともありませんでした。もっと、こう……胸がすくような気持ちになるかと思っていたのですが」
「ならなかったか」
「はい。ただ、静かでした」
アリシアは、少し歩いてから、ぽつりと続けた。
「あの人に認められたくて、五年間、働いていたのだと思っていました。認められなくて、悔しかったのだと。……でも、さっき顔を見て、そうではなかったと分かりました。私はただ、あの場所に、私の居場所がないことを、認めたくなかっただけです」
ディアスは、何も言わずに聞いていた。
「今は、あります」
アリシアは、前を向いたまま言った。
「認めてくれる人が、いる場所が」
ディアスは、しばらく黙っていた。それから、いつもの飄々とした調子で、けれど少しだけ照れたように、言った。
「……それは、私のことか」
「さあ。どうでしょう」
アリシアは、また笑った。今度は、先ほどより、ずっと軽い笑みだった。
窓の外で、ヴァルナの空が高く晴れていた。裁きは、まだ下されていない。だが、何かが確かに、終わりに向かって動き始めていた。




