第三十四話 「父への圧力」
制度案の骨子は、三日を待たずに動き始めた。
財務卿から離宮に届いた書状には、入札制度の試験導入を北部の一区画で始めたい、という打診が記されていた。会議のあの空気を思えば、驚くほど早い決断だった。
「広まっているようですよ」
朝、資料を届けに来たセバスチャンが言った。
「王都の商人の間で、クロイツの顧問が財務卿を数字だけで黙らせた、という話が。尾ひれもついているようですが」
「尾ひれ、というと」
「他国から来た令嬢が、たった一枚の紙で国庫の穴を言い当てた、と。……概ね事実ですが」
アリシアは書状に目を落としたまま、小さく息を吐いた。
(噂になるのは、仕事の邪魔になる)
そう思うのに、悪い気はしなかった。婚約者だった頃、どれだけ働いても名前が出ることはなかった。誰の手柄でもない仕事を、五年間続けてきた。今は、少なくとも「クロイツの顧問」として数えられている。それだけの違いだった。
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異変は、その日の昼過ぎに来た。
セバスチャンが、いつもより硬い顔で離宮の一室に入ってきた。手には一通の書状。
「アリシア様。伯爵家の様子を探らせておりましたが……ランベルト伯が、昨夜、王城に呼ばれております」
「父が? 何の用件で」
「表向きは、旧知の臣下への慰労、と。ですが、呼んだのは陛下ではありません」
セバスチャンが一拍置いた。
「レオナルド殿下です」
アリシアの手が、資料の上で止まった。
「……招聘状は、陛下の署名でした。父を呼ぶ権限は、殿下にはないはずです」
「ええ。ですから、これは公式の場ではない。私的な呼び出しです」
私的な呼び出し。その言葉の意味を、アリシアはすぐに理解した。記録に残らない。誰の許可も要らない。そして――何を言っても、後から「そんなことは言っていない」で済ませられる。
「父は、何と」
「まだ、伯爵ご本人からは何も。ただ、城を出られた後、真っ直ぐ屋敷に戻られたそうです。いつもなら知人を訪ねる方が、昨夜は誰にも会わずに」
アリシアは立ち上がった。
「会いに行きます」
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ランベルト伯爵家の屋敷は、王都の外れにあった。かつて自分が育った家。門をくぐるのは、婚約破棄の日以来だった。
父は、書斎で待っていた。少し痩せたように見えた。
「アリシア。……来なくてよかったものを」
開口一番、父はそう言った。娘を責める口調ではなかった。むしろ、庇うような響きだった。
「殿下に呼ばれたと聞きました。何を言われたのですか」
父は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「大した話ではない。近況を聞かれただけだ」
「お父様」
アリシアは静かに言った。
「私は、五年間、この国の帳簿を読んできました。人が本当のことを言っているかどうかは、声より先に、間の取り方で分かります。今、ずいぶん長く間を置かれました」
父の肩が、わずかに落ちた。長い付き合いの娘に、隠しごとは通じないと悟った顔だった。
「……お前が、クロイツの顧問として来ていることを、殿下は面白く思っておられない」父は低く言った。「戻ってくる気はないのか、と聞かれた。ない、と答えれば――ランベルト家の立場は、今後、保証しかねる、と」
「脅されたのですね」
「脅し、という言葉は使われなかった。使わずに、そう伝わるように話された。……昔の殿下は、こういう方ではなかった。焦っておられるのだろう」
アリシアは、拳を握った。仕事として処理できるものなら、いくらでも処理できた。数字の話なら、いくらでも反論できた。だが、これは違った。父が、自分のために立場を失おうとしている。それは、帳簿のどこにも載っていない種類の損失だった。
「私が戻れば、済む話ですか」
「馬鹿を言うな」
父の声が、初めて強くなった。
「お前を手放したのは、あちらだ。今さら、都合が悪くなったからと呼び戻すのを、私が許すと思うか。……立場など、いくらでもくれてやる。お前が、あの家で人間扱いされなかったことに比べれば、安いものだ」
アリシアは、言葉を失った。
(お父様は、知っていた)
誰にも知られず働いていたことも、誰にも認められなかったことも。父だけは、ずっと見ていた。
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離宮に戻ると、ディアスが待っていた。アリシアの顔を見て、すべてを察したらしかった。
「伯爵は、何と」
「私のために、立場を捨てると。……レオナルドが、私的に呼び出して、戻らなければ家の保証はしかねる、と伝えたそうです」
ディアスの表情が、静かに変わった。怒りを露わにするのではない。むしろ、逆だった。感情を、奥へ奥へと沈めていく顔だった。
「私的な呼び出し、か」
「ええ」
「つまり、陛下の名で招いておきながら、その裏で、王太子個人が他国の顧問とその親族に圧力をかけた。招聘状の範囲を、完全に超えている」
ディアスは窓辺に立ち、外を見たまま続けた。
「アリシア。一つ確認させてくれ。お前は、ヴァルナに戻りたいか」
「いいえ」
迷いはなかった。
「なら、決まりだ」
ディアスが振り返った。声は静かなのに、有無を言わせない響きがあった。
「これは、もう内政の話ではない。クロイツ公爵家の顧問と、その血縁に対する、他国王族からの圧力だ。外交問題として、正式に扱う」
「事を、大きくするのですか」
「大きくするんじゃない。大きさを、正しく測るだけだ」
ディアスは、机の上の招聘状を手に取った。国王の署名が入った、あの書状だった。
「陛下は、彼女の知見を借りたいと書かれた。私はそれに応じて、顧問を伴い、国賓として訪れている。その顧問の父親を、王太子が私的に呼びつけて脅した。――これを黙って飲めば、次は必ずある。今度はもっと、上手いやり方で」
その通りだった。一度でも通してしまえば、レオナルドは学習する。次は記録に残らないよう、もっと巧妙に。父を、アリシアを、際限なく道具にする。
「明日、陛下に謁見を願い出る」
ディアスが言った。
「経済連携の進捗報告という名目でな。その場で、この件を、陛下ご自身に問う」
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その夜、アリシアは眠れなかった。
窓の外の庭園を見下ろしながら、明日のことを考えていた。陛下が、この件をどう裁くのか。レオナルドが、どう出てくるのか。父の立場が、どうなるのか。
いくつもの数字を並べるように、可能性を組み立てていく。だが、どれだけ組み立てても、胸の奥のざわつきは消えなかった。
(仕事なら、答えが出るのに)
これは、仕事ではなかった。父がいて、ディアスがいて、自分がいる。損得では測れない何かが、真ん中にあった。
「まだ起きているのか」
背後から、ディアスの声がした。振り返ると、扉のところに立っていた。
「眠れないだけです」
「そうか」
ディアスは、部屋には入らず、そのまま言った。
「明日、私が全部話す。お前は、隣に立っていればいい。……何も、一人で背負わなくていい」
アリシアは、その言葉を、いつものように処理しようとした。
できなかった。
ただ、胸の奥のざわつきが、少しだけ、温かいものに変わった気がした。
「……はい」
短く答えると、ディアスは満足そうに頷いて、扉を閉めた。
窓の外で、ヴァルナの夜が更けていく。明日、何かが決まる。アリシアは、そのことを、不思議と恐れていなかった。




