第三十三話 「レオナルドとの再会」
足が、勝手に止まっていた。
廊下の向こうから、レオナルドが歩いてくる。王族の正装、整った顔立ち。五年間、隣にいた男だった。
(止まる理由はない。仕事の相手ではないのだから)
そう思うのに、体が一瞬だけ言うことを聞かなかった。アリシアは小さく息を吐いて、また歩き出した。
「――アリシア」
レオナルドが先に声をかけてきた。名前を呼ぶ声に、迷いのようなものが滲んでいた。婚約者だった頃には聞いたことのない響きだった。
「殿下」
アリシアは足を止め、型通りの礼をした。他人行儀な言葉に、レオナルドがわずかに眉を寄せる。
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「元気そうだな」
「おかげさまで」
「クロイツでは、上手くやっていると聞いた」
「はい。仕事をしているだけです」
言葉の一つ一つが、薄い硝子の板のようだった。触れれば割れる、と分かっているから、二人とも表面をなぞるだけの会話しかしない。
レオナルドの視線が、アリシアの後ろに立つディアスへと動いた。
「クロイツ公爵。此度は、我が国のためにご足労いただき」
「顧問が呼ばれたのでな。護衛がてら」
ディアスの声は平坦だった。いつもの軽さがない。レオナルドもそれに気づいたのか、一瞬言葉に詰まった。
「経済会議の件は、財務卿から聞いている。……随分と、踏み込んだ提案をしてくれたようだな」
「求められた分だけ答えたまでです」
アリシアは淡々と返した。感情を乗せない言い方は、五年間かけて身につけたものだった。
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「なあ、アリシア」
レオナルドが一歩、距離を詰めた。
「王城の様子がおかしいと、お前も気づいているだろう。北部の件も、財政の件も。……お前がいた頃は、こんなことにはならなかった」
言葉の奥に、何かが滲んでいた。後悔にしては軽く、未練にしては直接的すぎる響きだった。
(この言い方は――)
処理しようとして、うまくいかなかった。ただの世間話ではない。何かを引き出そうとしている。
「私がいなくても回るように、殿下が体制を整えるべきだったのでは」
アリシアは静かに言った。責めたつもりはなかった。事実を言っただけだった。だが、レオナルドの表情が強張った。
「……それは」
「殿下」
それまで黙っていたディアスが、初めて口を開いた。声は低く、静かだった。
「都合が悪くなった途端に呼び戻そうとするのは、虫が良すぎませんか」
場の空気が、一瞬で凍った。
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「――何を」
「五年間、彼女を『人間らしくない』と切り捨てたのは、どちらでしたか」
ディアスの声に、いつもの飄々とした調子はなかった。
「必要なときだけ思い出して、都合よく引き戻す。それが許されると、まだ思っておられるなら」
「クロイツ公爵、これは我が国の内政の――」
「内政に口を出すつもりはありません。ただ、彼女は今、私の国の顧問です。その扱いについては、口を出す権利がある」
レオナルドは何か言い返そうとして、言葉が出てこなかった。ディアスの目には、いつもの余裕の代わりに、静かな怒りだけがあった。
アリシアは、その横顔を見て、少しだけ胸の奥が動いた。
(怒っている。……私のために?)
うまく言葉にならない感覚だった。前は、こういうものに気づきもしなかった気がする。
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「――失礼した」
レオナルドが先に目を逸らした。取り繕うように、口の端だけで笑う。
「言葉が過ぎた。今日のところは、これで」
そう言って踵を返す。だが、数歩進んだところで、一度だけ振り返った。
「アリシア。……また、話す機会をもらえないか」
「経済連携の話でしたら、いつでも」
アリシアは事務的に答えた。レオナルドは何か言いたげな顔をしたが、結局それ以上は何も言わず、廊下の先へと消えていった。
その背中を見送りながら、ディアスが小さく息を吐いた。
「言い過ぎたか」
「いいえ」
アリシアは首を振った。
「言うべきことを、言っていただいただけです」
(それに――)
言いかけて、続きは飲み込んだ。感謝という言葉にするには、何か違う気がした。
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その頃、国王は謁見の間で一人、報告書に目を通していた。
経済会議の様子は、既に側近から耳に入っている。クロイツの顧問が、数字と資料だけで財務卿たちを黙らせたという話だった。
(あの目だ)
国王は、書類から顔を上げた。
昔、ランベルト伯爵が持ってくる進言書には、いつも同じ匂いがあった。回りくどい理屈を並べず、事実だけを積み上げて、反論の余地をなくす書き方。今日、経済会議の報告書に記された提案の骨子にも、同じ匂いがあった。
(伯爵の進言が、ここ数年で急に精彩を欠いた時期があった)
思い当たる時期が、一つだけある。娘の婚約が破棄された、あの頃だ。
国王は報告書を閉じ、しばらく黙って窓の外を見ていた。
(もしや――)
確信に近い勘だったが、まだ言葉にはしなかった。言うタイミングは、もう少し先でいい。今はまだ、確かめるべきことが他にある。
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夜、宿舎として用意された離宮の一室で、アリシアは資料を整理していた。
「あの様子だと、しばらくは大人しくしていないだろうな」
ディアスが、扉のところから言った。
「レオナルドのことですか」
「ああいう手合いは、一度言葉に詰まると、後で必ず別の形で来る。直接言えなかった分を、遠回しにやろうとする」
「父の立場を使う、ということですか」
「可能性はある」
ディアスの声が、少しだけ硬くなった。
「セバスチャンに、伯爵家の様子を探らせている。何かあれば、すぐに分かる」
アリシアは資料を閉じ、しばらく黙っていた。
(父に、迷惑がかかるかもしれない)
仕事として処理できるうちは、まだいい。だが、これは仕事ではなかった。
「大丈夫だ」
ディアスが、静かに言った。
「一人では行かせない、と言った。それは、お前の父上のことも含めての話だ」
アリシアは顔を上げた。言葉が、すぐには出てこなかった。
窓の外では、ヴァルナの夜が、いつもと変わらず更けていく。だが何かが、確実に動き始めていた。




