第三十二話 「経済会議」
ヴァルナ王国の王都は、記憶にあるものとほとんど変わっていなかった。
石畳の広場、鐘楼、行き交う馬車。婚約者として何度も通った道を、今度は他国の顧問として通っている。その事実に、アリシアは思ったより動揺しなかった。
(変わったのは私の立場だけ。街は何も変わっていない)
王城の正門で、案内役の文官が待っていた。深く一礼し、少し戸惑ったような顔をした。かつて婚約者として出入りしていた女が、隣国公爵の随員として戻ってくる。その光景に、慣れている者などいないはずだった。
ディアスは、馬車を降りてからずっと口数が少なかった。いつもなら初めての場所でも軽口の一つくらい挟むのに、今日は儀礼的な会釈だけで済ませている。
(お疲れなのかしら)
アリシアはそう思っただけで、深くは考えなかった。
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国王への挨拶は、拍子抜けするほど短く済んだ。
「よく来てくれた。ディアス殿も、遠路ご苦労」
社交の場で顔を合わせたことは、これまでにも何度かあった。だが、当たり障りのない一言に気の利いた返しを添えるいつものディアスと違い、今日は「痛み入ります」とだけ返した。素っ気ないくらい短かった。
国王が一瞬、意外そうな顔をしたが、すぐに話を進めた。
国王は歓迎の言葉を述べ、アリシアには「息災そうで何よりだ」とだけ言った。婚約破棄の件には一切触れなかった。触れられない話だと、双方分かっていた。
「早速だが、経済の話は財務卿たちに任せている。忌憚のない意見を聞かせてもらいたい」
「ありがたく存じます」
形式的な挨拶が終わると、すぐに別室――経済会議のための広間へと通された。
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広間には、財務卿を筆頭に十名ほどの文官が並んでいた。誰の顔にも、隠しきれない懐疑が浮かんでいる。
(他国の顧問に、何を教わることがあるのか)
その空気を、アリシアは資料の束を開くことで無視した。
「北部貿易についてご説明します」
前置きは短かった。
「北部の輸送は、実質一社の独占状態にあります。過去数年で通行料が段階的に引き上げられ、それが仕入れコストの上昇として各地に波及していました」
財務卿の一人が眉をひそめた。
「その件は、我々も把握している。原因は分からずとも、数字の悪化は追っていた」
「はい。ただ、原因が分からなければ、対症療法しか打てません。隣国クロイツでは、同じ輸送網を使う商人たちが仕入れコスト増で連鎖倒産寸前になりました。そちらは既に解決済みです」
「聞いている。……それが、この国とどう関係を」
「関係あるのは結果の方ではなく、原因の方です」
アリシアは資料の図を広げた。
「独占業者が値上げできるのは、対抗できる業者がいないからです。クロイツでは、複数の輸送業者が競争できる入札制度を作りました。結果、翌四半期で通行料は下がり、輸送量は回復しました」
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「――それを、ここでもやれ、と」
財務卿の声には、まだ抵抗があった。
「隣国の顧問の意見は、まあ参考程度に伺っておきましょう」
誰かが小さく笑いながら言った。悪気のない、社交辞令のつもりの一言だった。
それまで壁際で黙っていたディアスが、初めてわずかに口を開いた。
「……参考程度、か」
声は低く、短かった。それ以上は続けず、また口を閉ざした。財務卿の何人かが、微妙な顔で目を伏せた。
「業者を選ぶのは、そう単純な話ではない。長年の付き合いというものが」
「付き合いが長いことと、正当な価格であることは、別の話です」
アリシアは淡々と言った。
「今のままなら、来年また同じだけ通行料が上がります。国庫からの補填で穴を埋め続けるか、制度を変えて根本を直すか。どちらが安く済むかは、この数字を見れば分かります」
資料の最後のページには、クロイツで実際に動いた数字が並んでいた。輸送コストの推移、税収の回復、市場に戻った農産物の量。
沈黙が落ちた。
一番若い財務官が、資料を覗き込んで小さく声を上げた。
「……本当に、これだけの差が」
「三ヶ月あれば、数字で証明できます」
アリシアは静かに言った。
「ただし、業者側は抵抗します。今のうちに制度を用意しておく方が、後で揉めるより早いです」
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会議が終わる頃には、財務卿たちの顔つきは変わっていた。懐疑は消えていないが、無視できるものでもなくなっていた。
「三日以内に、制度案の骨子をまとめる。……その上で、正式に検討させてもらいたい」
「お待ちしております」
アリシアは一礼した。長かった会議が、ようやく終わった。
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広間を出て、長い廊下を歩く。ディアスは、会議中よりもさらに口数が少なくなっていた。
「お疲れですか」
「……いや」
短い返事だった。いつもなら「疲れたのは君の方だろう」くらいは返してくるのに、それすらなかった。
アリシアは横目でディアスを見た。表情は普段通りに見える。だが、廊下を歩く歩幅が、行きよりも少しだけ速かった。
「何か、ありましたか」
「……別に。会議が長かっただけだ」
嘘だ、とまでは思わなかった。ただ、いつもの飄々とした調子とは、どこかが違う気がした。
(何が違うのか、うまく言えないけれど)
処理しようとして、うまくいかなかった。アリシアはそれ以上追及せず、ただ隣を歩き続けた。
窓の外には、見覚えのある庭園が広がっていた。婚約者だった頃、何度も通った場所だった。
ふと、廊下の向こうに人影が見えた。
王族の正装。整った顔立ち。かつて、五年間隣にいた男。
レオナルドが、こちらをまっすぐに見ていた。
アリシアの足が、一瞬止まった。




