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元社畜令嬢、婚約破棄されたので隣国で本気出します  作者: ハル


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第三十一話 「一人では行かせない」

招聘状への返事は、三日以内にと決めた。


 急かされたわけではない。アリシアが自分でそう区切った。長く迷うほど、父の立場が悪くなる時間が延びるだけだ。


 執務室に、ディアスとセバスチャン、クラーラが集まっていた。机の上には、国王の署名入りの招聘状が広げられている。


 「断る、という選択肢は」


 ディアスが言った。声はいつも通り軽かったが、目は笑っていなかった。


 「あります。無理にとは言わぬ、と書いてありますから」アリシアは書類を見たまま答えた。「でも、断れば父の立場が悪くなります。誰も悪意なく、そうなる形です」


 「分かってて聞いた」


 「知ってます」


 セバスチャンが小さく咳払いをした。


 「殿下の動きについては、まだ確証は取れておりません。ただ、王城で妙な動きがあるのは事実のようです。財務卿の周辺が慌ただしいと」


 「レオナルドが何をしたいのか、行ってみないと分からない、ということですね」


 「左様で」


━━━━━━━━━━━


 アリシアは招聘状の文面をもう一度読んだ。


 『貴女の知見を、今一度借りたい局面がある』


 国王の言葉は丁寧だった。命令ではない。だが命令でないからこそ、断りづらい形をしていた。


 (仕事の話なら、答えは出ている)


 北部貿易の構造なら、クロイツ側で証明済みの理屈がある。輸送業者の独占さえ崩せれば、数字は動く。入札制度の実例を見せれば、財務卿たちも納得するはずだ。行けば、役に立てる。


 問題は、そこにレオナルドがいることだった。


 「私一人で行きます」


 アリシアは顔を上げて言った。


 「経済連携の話をしに行くだけです。招聘状にも、そう書いてある。殿下の思惑がどうであれ、私がやることは変わりません」


 「駄目だ」


 ディアスが即座に言った。


━━━━━━━━━━━


 「駄目、とは」


 「一人では行かせない、と言った」


 アリシアは少し黙った。


 「クロイツを空けるわけには」


 「セバスチャンがいる。三日や四日、私がいなくて回らない領地なら、そもそも私は要らない」


 「そういう話では」


 「私の話だ」


 ディアスは机に手をついて、身を乗り出した。


 「これは公爵としての判断でもある。クロイツの顧問が他国に単身で招かれて、しかもその国の王太子が裏で何か動いている。護衛もなしに行かせる方が、外交上おかしい」


 理屈は正しかった。だが、それだけではないことも、アリシアには分かった。声の温度が、理屈だけの話にしては高かった。


 ディアスも、それに気づいたのか、身を起こして肩の力を抜いた。


 「……まあ、外交上の理屈だ。深い意味はない」


 いつもの飄々とした調子に戻っていた。だが、遅かった。もう聞こえてしまった後だった。


 「……分かりました」


 アリシアは短く言った。それ以上、言葉が出てこなかった。


 (一人で行かせない、か)


 処理しようとしたが、うまく処理できなかった。仕事として片づく言葉ではなかったからだ。


━━━━━━━━━━━


 「では、公式訪問という形にしましょう」


 セバスチャンが話をまとめにかかった。


 「クロイツ公爵ディアス様が、経済連携の議のため、特別顧問アリシア様を伴いヴァルナ王国を訪問する。招聘への返事というより、こちらから出向く形にすれば、体面も立ちます」


 「呼びつけられて行くのと、経済連携を提案しに行くのとでは、意味が違う」


 ディアスが頷いた。


 「返書には、そう書け。国王への礼は尽くすが、下手には出るな」


 「かしこまりました」


 クラーラが、それまで黙って控えていたが、そっと口を挟んだ。


 「アリシア様。向こうでの衣装は、いつものものでよろしいですか。それとも、少し格を上げたものをご用意しますか」


 「……格を上げる、というと」


 「王城に上がるのです。顧問としての格好はいつも通りでいいでしょうが、謁見の場では、それなりのものを」


 実務的な問いだった。だからアリシアはすぐに頷いた。


 「クラーラに任せます」


 「かしこまりました」クラーラは小さく微笑んだ。「腕が鳴ります」


━━━━━━━━━━━


 出発は五日後と決まった。


 その間、アリシアは資料をまとめ続けた。北部貿易の構造図、独占業者による値上げの実態、そして入札制度でクロイツの数字がどう動いたか。証拠として使えるものを全部並べ、ヴァルナの財務卿にも一目で分かる形に整えた。


 (口で説明するより、数字を見せた方が早い)


 これは前世からの癖だった。田中アリサだった頃も、会議で言葉を尽くすより、資料一枚で場を収めることの方が多かった。


 夜、荷物を整理していると、ディアスが執務室に顔を出した。


 「まだ起きていたのか」


 「資料の最終確認です。向こうで恥をかくわけにはいきませんから」


 「恥をかくとしたら、それは向こうの財務卿の方だろう」


 アリシアは手を止めた。


 「随分な自信ですね」


 「事実を言っているだけだ」


 ディアスは机の端に置かれた資料の束を眺めた。厚みのある紙の山だった。


 「五日でこれだけ作ったのか」


 「五日もあれば足ります」


 「……そうか」


 ディアスは短く笑った。それ以上は何も言わず、部屋を出ていった。


 アリシアは資料を閉じて、しばらくその場に座っていた。


 (一人では行かせない)


 昼間の言葉が、まだ耳の奥に残っていた。処理できない言葉は、こうして残る。前はもっと早く忘れられた気がするのに、と思いながら、アリシアは灯りを消した。


━━━━━━━━━━━


 出発の朝、公爵邸の前に馬車が二台並んだ。


 一台には資料と荷物、もう一台にはアリシアとディアス、セバスチャンが乗り込む。見送りに出たクラーラが、深く頭を下げた。


 「行ってらっしゃいませ。……くれぐれも、ご油断なさいませんよう」


 「分かってる」


 ディアスが答えた。クラーラの目は、殿下のことを言っているのだと、アリシアにも分かった。


 馬車が動き出す。窓の外で、クロイツの街並みが遠ざかっていく。


 「緊張しているのか」


 ディアスが聞いた。


 「していません」


 「顔に出ている」


 「……少しだけ」


 正直に言うと、ディアスは満足そうに頷いた。


 「一人じゃない。それだけ覚えておけ」


 アリシアは窓の外を見たまま、小さく頷いた。答えは、うまく言葉にならなかった。


 馬車は、ヴァルナ王国への道を進み始めた。

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