第三十話 「ヴァルナからの使者」
三日経った。
書類は、また進むようになっていた。北部農産物の見込み、街道補修の予算、新規商会との条件交渉。三件とも片づいた。
いつも通りだった。
(いつも通りに、戻った)
アリシアはそう思うことにしていた。実際、手は動いていた。数字も合っていた。それで十分だった。
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昼過ぎ、クラーラが手紙を運んできた。
「アリシア様。ランベルト家からです」
差出人は父だった。定期便ではなく、直接の使いだった。
アリシアは書類から顔を上げ、受け取った。封を切ると、見慣れた字があった。急いた筆致ではない。いつもの、几帳面な字だった。
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文面は、娘の近況を尋ねる言葉から始まっていた。次に――
『先日、王城に上がった折、北部の件を耳にした。お前がクロイツで為したことだと、財務卿が名指しで話していた。誇らしく思う』
いつも通りの、控えめな喜び方だった。父らしかった。
最後に、こう続いていた。
『――もっとも、城の様子は近頃どうも落ち着かない。財務卿の話しぶりにも、以前とは違う硬さがあった。詳しいことは分からぬが、何かが動いているように見える』
『くれぐれも、私のことは案じずに。お前は今の場所で、為すべきことを為せばいい』
案じるな、と書く手紙は、大抵、案じるべき時に書かれる。
前世でも、今世でも、それは変わらないらしかった。
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アリシアは手紙を丁寧に畳んだ。
(何かが動いている)
父の言葉は曖昧だった。だが、曖昧なまま伝えてくるということは、本人も掴みきれていないということだ。
窓の外を見た。晴れていた。何もおかしくは見えなかった。
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翌日、執務室の扉が叩かれた。セバスチャンだった。
「アリシア様。お客人です」
「予定にありませんが」
「ええ。……ヴァルナ王国、外務省からの使者です」
ペンを持つ手が止まった。
「公爵様は」
「応接間でお待ちです。アリシア様にも同席をと」
アリシアは書類を閉じた。父の手紙が届いた、その翌日だった。
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応接間に入ると、初めて見る男が立っていた。
黒い正装、胸に王国の紋章。年は四十前後。姿勢がまっすぐで、隙がなかった。外交の場に慣れた人間の立ち方だった。
ディアスがソファに座っていた。表情はいつも通り、飄々としていた。
「アリシア嬢」
使者が先に口を開いた。
「お初にお目にかかります。ヴァルナ王国、外務省よりまいりました」
「アリシア・フォン・ランベルトです」
使者は一礼し、封書を取り出した。金の封蝋に、王家の紋章。
「陛下より、正式な招聘の意向をお伝えするようにと」
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「中身を伺っても?」
ディアスが言った。声は軽かったが、目は使者から離れていなかった。
「もちろんです、公爵閣下。此度の北部貿易の一件、財務卿が三ヶ月かけても掴めなかった構造を、アリシア嬢が根本から正されたと伺っております」
使者は言葉を選ぶように、一拍置いた。
「陛下としても、正式に礼を尽くしたいというお気持ちがございます。……ただ」
「ただ?」
使者は少し目を伏せた。
「……率直に申し上げますと、此度の件、殿下からも陛下へお願いがあったと聞き及んでおります。詳しい経緯は、私の立場では」
言い淀んで、それ以上は続けなかった。
ディアスとアリシアは、目を合わせなかった。だが、どちらも同じことを考えていた。
(殿下――レオナルド)
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「なお」
使者が続けた。
「此度の件は、ランベルト伯爵閣下にも既にご報告差し上げております。ご息女の活躍を、大変喜んでおいででした」
アリシアは表情を変えなかった。
(もう、伝わっている)
父の昨日の手紙は、王国が動き出したことへの予感だった。今日の使者は、その本体だった。順番が、たった一日しか違わなかった。
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「返信はいつまでに、と伺っても?」
「急かすつもりはございません。無理にとは、陛下も仰せではございませんでしたので」
それだけ言って、深く一礼した。
「本日はこれにて失礼いたします」
優雅な足取りで、応接間を出ていった。
残されたのは、アリシアとディアス、そして手の中の封書だった。
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「開けないのか」
ディアスが言った。
「開けます」
アリシアは封を切った。厚みのある紙が二枚。国王の署名。丁寧な文面だったが、謁見の間で聞いた口調とは、どこか違っていた。
『此度、無理を申すようで心苦しいが――』
その一文から始まっていた。命令の形ではなかった。
『貴女の知見を、今一度借りたい局面がある。強いてとは言わぬ。だが、事情を汲んでもらえればありがたい』
末尾は、こう締められていた。
『――ランベルト伯にも、既に此度の件は伝えてある。良い返事を、伯も心待ちにしていることだろう』
命令ではない。それでも、父の名前が最後に置かれていた。
断れば、父が「王家の願いを娘に断らせた」側に立つことになる。
脅しではない。ただ、そういう形になってしまう。
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「アリシア」
ディアスが名を呼んだ。
「陛下は、脅すつもりはないと思います」アリシアは手紙を見たまま言った。「でも、私が断れば、父の立場は悪くなります。誰も悪意なく、そうなる形です」
「殿下が、裏で動いている」
「はい。理由は分かりませんが」
ディアスの声は静かだった。
「セバスチャン、王城の近頃の様子――特に、殿下の動きを探れるか。表向きの理由で構わない」
「かしこまりました」
控えていたセバスチャンが即座に応えた。
アリシアは手紙を折りたたんだ。丁寧に、元の折り目通りに。
「ヴァルナ王国は、まだ何も強制していません。今のところは」
「ああ。今のところは、な」
窓の外は、変わらず晴れていた。




