第二十九話 「処理できないもの」
帰りの馬車の中は、静かだった。
行きと同じ道だった。同じ座席で、同じように向かい
合っていた。ただ、アリシアは書類を出さなかった。
ディアスも何も言わなかった。
窓の外を見ていた。表情は変わっていなかった。
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「……アリシア」
ディアスが言った。
「はい」
「疲れた?」
少し間があった。「いいえ」
「そう」
それだけだった。ディアスはまた窓の外を見た。
アリシアも、窓の外を見た。
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屋敷に戻ったのは夕方だった。
クラーラが出迎えた。「お帰りなさいませ。お疲れでは
ないですか」
「大丈夫です」
「夕食の準備ができております。先にお部屋でお休みに
なりますか」
「いいえ、仕事をします」
クラーラが一瞬止まった。何も言わなかった。
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執務室に入って、書類を広げた。
懸案が三件あった。北部農産物の次月分の見込み。街道
補修の予算調整。新規の商会との条件交渉。全部、先週
から手をつけていたものだった。
ペンを取った。
止まった。
書類を見た。数字があった。数字は正しかった。問題は
数字ではなかった。
もう一度、ペンを持ち直した。書き始めた。三行書いて、
また止まった。
(彼女は私のアリシアです)
ディアスの声だった。あの声の調子だった。普段と変わ
らない声だった。ただ、一歩だけ前に出ていた。
アリシアはペンを置いた。
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窓の外が暗くなっていた。
いつの間にか、時間が経っていた。書類は三行しか進ん
でいなかった。
こういうことは、なかった。仕事が進まないことは、
なかった。集中できないことも、なかった。書類の前に
座って、別のことを考え続けるなど——
(私のアリシア)
アリシアは目を閉じた。
どこに入れればいいか。どう扱えばいいか。何の棚にも
収まらなかった。
ただ、嫌ではなかった。
それだけが、奇妙だった。




