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元社畜令嬢、婚約破棄されたので隣国で本気出します  作者: ハル


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第二十五話 「動いた」

 一週間後、セバスチャンから報告が来た。


 「手形の処理が完了しました」とセバスチャンが言った。「六名全員、署名から処理まで滞りなく」


 アリシアは書類から目を上げなかった。「ありがとうございます」


━━━━━━━━━━━


 その三日後、セバスチャンがもう一度来た。


 今度は書類を一枚持っていた。机の上に置いた。置き方が、いつもと少し違った。


 「これを見ていただけますか」


 アリシアは手を止めた。セバスチャンがそういう置き方をするのは、珍しい。


 紙を取った。北部取引に関わる商人六名の、この一週間の取引記録だ。


 数字を見た。


━━━━━━━━━━━


 ゴットハルト輸送への支払い遅延が、ゼロになっていた。


 カールステンの仕入れ量が、先月比で三割増えていた。ヴァルターの取引先への決済が、予定より四日早く完了していた。レマンの農産物の出荷量も、動き始めている。


 「……動いた」


 声に出すつもりはなかった。


 「はい」とセバスチャンが言った。「動きました」


━━━━━━━━━━━


 「一週間でここまで変わりますか」


 「通常であれば、ありません」


 アリシアはもう一度、紙を見た。手形が消えたことで、各社の手元に流動性が戻った。支払いが動き、仕入れが動き、出荷が動いた。連鎖が、今度は逆方向に回り始めている。


 「北部の農産物の流通量は」


 「来週の数字が出ればはっきりしますが」とセバスチャンが言った。「今の動きが続けば、先月比で二割以上改善する見込みです」


 「そうですか」


 「……アリシア様」


 「はい」


 「この数字は」セバスチャンが少し間を置いた。「正直に申し上げると、信じられません」


━━━━━━━━━━━


 「信じられない」とアリシアは繰り返した。「どういう意味ですか」


 「数字が正しいのは分かっています。処理の記録も確認しました。全部、合っています」


 「では」


 「合っているのに」セバスチャンが言った。「一週間で、これだけ変わる。三十年、数字を見てきましたが、こういう動き方を見たことがない」


 アリシアは紙を机に置いた。


 「手形が詰まっていたから、動けなかった。詰まりが取れたから、動いた。それだけです」


 「そうです」とセバスチャンが言った。「理屈は分かっています」


 少し間があった。


 「理屈が分かっていても、驚くことがあると、初めて知りました」


━━━━━━━━━━━


 夕方、ディアスが執務室に顔を出した。


 「聞いた。数字が動いたらしい」


 「セバスチャンから」


 「うん」


 ディアスが机の端に寄りかかった。「一週間でここまで変わるとは思っていなかった」


 「私も、もう少し時間がかかると見ていました」


 「それは正直な話だね」ディアスが少し笑った。「セバスチャンが驚いていた。あの人が驚くのは珍しい」


 「そう言っていました。三十年で初めてだと」


 「君は驚かなかったの」


 アリシアは少し考えた。「数字が動くことは、分かっていました」


 「うん」


 「ただ」


 「ただ?」


 「これだけ早く動くとは、思っていませんでした」


 ディアスが何も言わなかった。


 アリシアが紙に目を落とした。そのとき——口の端が、ほんのわずかに上がった。


 本人は気づいていない。


 ディアスは何も言わずに、部屋を出た。


━━━━━━━━━━━


 一人になってから、アリシアは紙をもう一度見た。


 北部の農産物の流通が戻れば、クロイツの仕入れルートが安定する。クロイツの仕入れルートが安定すれば、税収の基盤も戻る。王国側の輸送コストにも、遅れて影響が出るはずだ。


 (川下まで届くのに、どのくらいかかるか)


 計算は始めていた。

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