第三話 「クロイツ公爵家にて」
クロイツ公爵家の屋敷は、想像していたより質素だった。
二日間の馬車旅を経てたどり着いたそこは、広大な土地の中央にどっしりと構えた石造りの建物で、装飾より機能を重視したような印象だった。王都の貴族屋敷のように金箔や彫刻で飾られた外壁もなく、代わりに手入れの行き届いた畑と、整然と並んだ倉庫群が敷地を囲んでいる。
(なるほど。ここは見た目より中身に金をかけるタイプだ)
馬車を降りながら、アリシアは素早く周囲を観察した。
働いている使用人の数、馬の状態、倉庫の鍵の新旧、荷物の積み方。ひとつひとつが、この屋敷の財政状況と経営方針を語っていた。
「何を見てるの」
隣でディアスが言った。
「色々と」
「具体的に」
「倉庫が三棟ありますが、一番右だけ鍵が新しい。最近増やしたか、中身を変えた。使用人は無駄な動きが少なくて、指示系統が整っている。馬は全頭状態がいい。お金の使い方に優先順位がある屋敷です」
ディアスがしばらく黙った。
「……馬車から降りてまだ三十秒だよ」
「見れば分かることです」
「本当に、見れば分かるんだね」
そう言ったディアスの声は、からかうのとは少し違う色をしていた。アリシアにはその意味がよく分からなかったので、特に答えなかった。
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通された客間は、やはり質素だったが居心地が良かった。
余計なものがない分、広く感じる。窓から見える中庭には季節の花が咲いていて、その向こうに緑の丘が続いていた。
(王都とは空気が違う)
アリシアは窓辺に立って、しばらくその景色を眺めた。
王都にいた頃は、こういう景色を見る余裕がなかった。常に次の仕事のことを考えていた。帳簿、外交、社交の情報収集。今日やることが常にあって、景色を眺める時間は贅沢だった。
(田中アリサも同じだったな)
終電を逃した夜、ふと窓の外を見たら東京の夜景がきれいで、でも次の瞬間には明日の会議のことを考えていた。あの頃の自分と、今の自分は、本質的に何も変わっていない。
ノックの音がした。
「失礼します」
入ってきたのは四十代ほどの男だった。落ち着いた物腰で、執事というより参謀という印象がある。
「クロイツ公爵家の家令、セバスチャンと申します。アリシア様のお着きをお待ちしておりました」
「ランベルトのアリシアです。よろしくお願いします」
「早速で恐縮ですが、公爵様よりお言葉をお預かりしております。『明日から好きに動いていい。ただし家令に何でも聞くこと』と」
(明日から、か)
アリシアは少し考えた。
「今日からでもいいですか」
セバスチャンが僅かに目を見開いた。
「……今日ですか」
「旅で二日かかりました。その間ずっと考えていたことがあるので。お時間をいただけますか」
家令は少し間を置いてから、静かに頭を下げた。
「かしこまりました。書斎にご案内いたします」
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書斎のテーブルに広げられたのは、クロイツ領の地図と直近三年分の収支報告書だった。
セバスチャンが揃えてくれたものだが、アリシアが「何があるか」を聞き、必要なものを順番に挙げていったら、三十分で必要な資料が全部出てきた。
「整理されてますね」
アリシアが言うと、セバスチャンが答えた。
「公爵様のご方針で、記録は必ず残すよう徹底しております。ただ……」
「使いこなせていない」
「……はい、正直に申し上げますと」
アリシアは頷いて、報告書に視線を落とした。
数字は正直だ。何を見ても、何を隠しても、数字だけは嘘をつかない。
三年分のデータを見ていくと、いくつかのパターンが見えてきた。収益が安定している部門、季節によってブレが大きい部門、そして一見問題なく見えるが実は構造的な課題を抱えている部門。
(南の交易路の件は氷山の一角だ。同じ構造の問題が他にも三つある)
「セバスチャンさん」
「はい」
「少し確認させてください。東の農地、昨年から収益が落ちていますが、これは天候の影響だけですか」
家令が少し緊張した様子で答えた。「……それが、実は農地の一部で水はけが悪くなっておりまして。改善工事の見積もりは取ったのですが、費用の問題で保留になっております」
「いつから」
「二年前から、です」
アリシアはその数字を頭の中で計算した。二年間の収益低下額と、工事費の比較。
「工事した方が安いですね」
「……え?」
「二年分の収益低下を計算すると、工事費の一・八倍になります。もう今すぐやった方がいい。これは保留にするより実行する方が経済的に正しいです」
セバスチャンが固まった。
その時、書斎の扉が開いた。
「やっぱりここにいた」
ディアスが入ってきた。到着してから着替えたらしく、外套を脱いで少し楽な格好をしていた。
「何してるの」
「仕事です」
「着いた初日だよ」
「時間は有効に使いたいので」
ディアスはアリシアとテーブルに広がった資料を交互に見た。それからセバスチャンを見た。家令は何とも言えない表情をしている。
「セバスチャン、どうだった」
「……公爵様、東の農地の件、私は二年間判断を誤っておりました」
ディアスがアリシアを見た。
「着いて何時間?」
「三時間ほどです」
「東の農地の問題、三時間で見つけたの」
「資料があれば分かることです」
ディアスはしばらく何も言わなかった。
それから、静かに笑った。最初に会った時とも、馬車の中での笑い方とも違う。何かを確信したような、そういう笑い方だった。
「給料の交渉、明日しよう」
「今日でも構いませんが」
「今日は休んで。明日から好きにやっていい」
アリシアは一瞬だけ迷った。
「……分かりました。ただ、東の農地の件は早めにご判断ください」
「する」
「工事業者の選定は私が見てもいいですか」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
アリシアは報告書を丁寧に揃えて、立ち上がった。
窓の外はもう夕暮れで、丘が橙色に染まっていた。
(悪くない場所だ)
田中アリサとしての自分が、珍しくそう思った。
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第三話 了 / 次回「最初の結果」
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