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元社畜令嬢、婚約破棄されたので隣国で本気出します  作者: ハル


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第二話 「隣国へ」

翌朝、ランベルト公爵邸の庭には霧が出ていた。


 薄く白い霧が芝の上を這うように広がって、遠くの木々の輪郭をぼんやりと溶かしている。池の水面は鏡のように静かで、そこに映る空は本物よりも少し暗く見えた。


 アリシアはひとりで庭に出ていた。


 ドレスの裾が朝露に湿るのも構わず、石畳の小道をゆっくりと歩く。屋敷の中ではすでにメイドたちが動き始めているはずだったが、今この瞬間だけは静かだった。


 (十七年、か)


 この庭を歩き始めたのはいつだったか。前世の記憶が戻ったのは三歳の頃で、その頃からずっとここで考えごとをしてきた。王宮の社交に疲れた夜も、父との話し合いの後も、いつも最後はここに来た。


 庭を出ることになるとは、思っていなかった。


 「昨夜、父上に話しました」


 振り返ると、執事のアルドが数歩後ろに控えていた。白髪混じりの老齢の男で、アリシアが生まれた時からこの家にいる人だ。


 「旦那様は何と」


 「止めませんでした」


 アルドは静かに頷いた。父はそういう人だった。娘の判断を信じる、口数の少ない人。


 「ただ一言だけ」とアリシアは続けた。「『寂しくなるな』と」


 池のほとりで立ち止まる。水面に自分の顔が映っている。完璧に整えられた銀髪、青い瞳。


 (田中アリサが見たら笑うだろうな)


 地味なスーツで終電を走っていたあの頃の自分が、こんな令嬢になるとは夢にも思っていなかった。でもどちらの自分も、結局やることは同じだった。与えられた場所で、できることを、黙ってやる。


 「荷造りは終わっています」


 アルドが言った。「クロイツ公爵の馬車が、昼前に参ります」


━━━━━━━━━━━


 ディアス・フォン・クロイツは、約束の時間の少し前に現れた。


 紺色の外套、飾り気のない馬車。隣国の公爵にしては随分と地味な出立ちだったが、彼はそういう男だった。


 「来てくれると思ってたよ」


 「来なかったらどうするつもりでしたか」


 「また誘いに来た」


 「……ずいぶん自信がありますね」


 「君が優秀だから」


 アリシアは一度だけ屋敷を振り返った。正面玄関に父が立っていた。礼服ではなく、普段着のまま。


 「行きなさい」


 それだけだった。でもアリシアには充分だった。


 馬車に乗り込んで、扉が閉まった。窓の外を屋敷が流れていく。庭の霧はもう晴れていて、朝の光の中に白い花が咲いているのが見えた。


 (きれいだな、と思った。なぜか、今日初めて気がついた気がした)


━━━━━━━━━━━


 馬車が走り出してしばらく、ディアスは地図を広げた。


 「クロイツまで二日かかる。退屈なら眠っていい」


 「退屈ではありません」とアリシアは言った。「条件の話をしましょう」


 ディアスが少し笑った。「早いね」


 「時間は有効に使いたいので」


 地図に視線を落とす。クロイツとこの王国の国境、主要な交易路、隣接する他国との位置関係。頭の中で自然に整理が始まった。


 「何をやらせてもらえますか」


 「何でもやっていい。ただし結果を出すこと」


 「それは当然です。ところで」


 アリシアは地図の一点を指さした。


 「この南の交易路、迂回してますね。理由はなんですか」


 ディアスの目が少し変わった。


 「……よく気づいた。三年前に盗賊が出て以来、商人が避けてる。今は別ルートを使ってるが、距離が余分にかかって輸送コストが上がってる」


 「盗賊はもう出ていないんですか」


 「二年前に討伐した。でも一度ついた評判はなかなか消えない」


 「なるほど」


 アリシアはしばらく考えた。


 「商人への周知と、最初の一年だけ通行税を免除する。それだけで戻ってくると思います。実績が積み重なれば評判は自然に変わります」


 馬車の中に沈黙が落ちた。


 ディアスがじっとアリシアを見ている。


 「……今、馬車に乗って五分だよ」


 「地図を見れば分かることです」


 「それが分かる人間がいなかった、三年間」


 アリシアは何も言わなかった。窓の外を流れる景色を眺める。王都の建物がもう遠くなっていた。


 (前の職場でも、こういうことはよくあった。見えてるのに誰も言わない。言えない空気がある。でも私には関係なかった。問題があれば解決する。それだけだ)


 「給料の話をしましょう」とアリシアは言った。


 ディアスが吹き出した。


 「今そこ?」


 「条件交渉の続きです。結果を出す約束をしたので、相応の報酬をいただきたい」


 「……交渉、得意なの」


 「前世では毎日やってました」


 「前世?」


 アリシアは一瞬止まった。


 (しまった、口が滑った)


 「冗談です」と静かに言った。「それより数字を出してください。私の方でも試算します」


 ディアスはしばらくアリシアを見てから、また笑った。今度は最初とは違う、少し困ったような笑い方だった。


 「分かった。クロイツに着いたら正式に話そう」


 「ありがとうございます」


 アリシアは窓の外に視線を戻した。


 空が広くなってきた。王都を離れると、こんなに空が広いのかと思った。


 (さて)


 田中アリサが異世界で積み上げてきた十七年分が、ようやく本当の意味で使われようとしていた。


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第二話 了 / 次回「クロイツ公爵家にて」

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