第一話 五年分の仕事
夜の三時に財務報告書と格闘するのは、前世でも今世でも変わらない。
アリシア・フォン・ランベルトはランプの光の下に帳簿を広げ、羽ペンを走らせながら小さくため息をついた。
窓の外は真っ暗だ。公爵邸の庭も、王都の街並みも、今は何も見えない。見えるのは数字だけ。王国の第三四半期、南部三領の税収と支出の差異、それから誰も気づいていない穴。
(去年の同月比で十二パーセント落ちてる。原因は麦の不作だけじゃない)
ペンを置いて、こめかみを押さえる。
前世――田中アリサとして生きていた頃の癖が出た。数字に違和感を覚えると、どうしても止まれない。商社のデスクで深夜まで資料とにらめっこしていたあの頃と、やっていることが何も変わっていなかった。
違うのは、スーツじゃなくてドレスを着ていること。
それから、給料が出ないこと。
(まあ、もともとそういう話じゃないしな)
王太子レオナルドの婚約者として、アリシアが水面下でやってきたことは、本来なら財務大臣と外務卿の仕事を足して二で割ったようなものだ。でも誰かに頼まれたわけじゃない。やらなければ誰もやらないから、やっていた。それだけの話だ。
前世の記憶のせいで、この国の非効率さが見えすぎる。
財政の計算は甘く、外交判断は感情に左右され、商業政策は旧来の慣習をそのまま踏襲している。前世でさんざん叩き込まれたビジネスの感覚で見れば、問題だらけだった。
だから直してきた。
三年前に傾きかけた王家の財政を、アリシアは十六通の政策提言書にまとめて父経由で王宮に流した。採用されたのは十三。残りの三つはまだ時期が早かっただけで、今は形を変えて実施されている。
一昨年に起きた隣国との関税摩擦は、アリシアが社交の場で収集した情報を整理して事前に察知した。担当の外交官に情報を渡したのは匿名でだったが、おかげで事態は表面化する前に収束した。
去年の飢饉の際には、商業ルートの迂回案を考えて、父の名前で商会に打診した。食料不足は最小限に抑えられた。
誰も知らない。レオナルドも、王家も。
(まあ、知らなくていい)
アリシアは再びペンを取った。今夜中にこの帳簿の照合を終わらせれば、明日の茶会には余裕を持って出られる。
前世で身についた習慣は、なかなか抜けないものだ。
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翌日の茶会は、いつもどおり花と香水の甘い匂いに満ちていた。
シャンデリアが白い床を照らし、令嬢たちがカップを傾け、笑い声と社交辞令が飛び交っている。アリシアはその中に完璧な令嬢として存在しながら、心の中では昨夜の帳簿の続きを考えていた。
「アリシア」
レオナルドの声が名前を呼んだ。
振り向けば、黒髪に金の瞳の王太子が立っている。この国で一番絵になる顔をした男だ。ただ今日はその顔が、どこか居心地悪そうに見えた。
(ああ、これは)
前世の記憶が一瞬で判断した。上司が部下を呼ぶ前の顔だ。気まずいことを告げる直前の、あの表情。
「少し、いいか」
広間の端、窓際に場所を移す。外には手入れの行き届いた庭園が広がっていたが、景色を楽しむ余裕は今日に限ってなかった。
レオナルドの後ろに、一人の少女が控えていた。
茶色の巻き毛に大きな瞳。うっすらと涙をたたえたような、儚い印象の娘だ。エミリア・ローゼン。男爵家の令嬢で、ここ数か月で急速に王子の側に現れるようになった顔だった。
「……単刀直入に言う」
レオナルドが口を開いた。
「婚約を、破棄したい」
広間の端での出来事だったが、近くにいた令嬢たちには聞こえたらしく、さっと辺りの空気が変わった。誰かが息を呑む音がした。
アリシアは三秒、黙った。
悲しいわけじゃなかった。ただ、段取りを組み立てていた。書類の手続き、父への連絡、引き継ぎが必要な案件のリスト。
(南部の件、あれだけはきちんと誰かに渡さないと後で困る)
「……理由を、聞いても構いませんか」
「エミリアを愛している」とレオナルドは言った。迷いのない声だった。「アリシア、君は優秀だ。何でもそつなくこなして、非の打ち所がない。だがそれだけだ。俺はもっと、人間らしく笑い合える人と生きていきたい」
人間らしく。
(昨夜三時まで君の王国の帳簿を直してたんだが、それは人間らしくないのか)
口には出さなかった。そういうことを言う場面ではないし、言ったところで伝わらないことも分かっていた。
「わかりました」
アリシアは静かに答えた。
「婚約破棄、承ります。書類の手続きは父を通じて進めますので、殿下のご署名をお忘れなく」
「……それだけか」
「他に何かございますか」
レオナルドがわずかに眉を寄せた。泣くか怒るか、そういう反応を期待していたのだと、アリシアには分かった。
後ろでエミリアが「よかった」と小さく呟いた。
アリシアは深く一礼して、きびすを返した。
背筋を伸ばして、堂々と歩く。令嬢たちの視線が刺さるような気がしたが、構わなかった。前世でも今世でも、人に見られながら平然としているのは得意だった。
(よかったのは、私もだよ)
心の中でだけ、田中アリサの部分がそう呟いた。
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廊下に出た瞬間、人影があった。
「お疲れ、アリシア」
黒い外套に金の刺繍。隣国クロイツの公爵、ディアス・フォン・クロイツ。外交訪問で王宮に滞在中の彼が、なぜかここにいた。
「盗み聞きですか」
「偶然が重なっただけだよ」
飄々とした口調は昔から変わらない。この男は七年前から知っているが、一度も本音を見せたことがない。ただ、見ていないふりをして全部見ている目だけは、変わらずそこにあった。
「うちに来ない?」
さらりと言った。
「クロイツ公爵家として、正式にオファーしたい。君の能力、ずっともったいないと思ってた。あの王子には使いこなせない」
アリシアはしばらく彼を見つめた。
「……条件次第ですね」
答えた瞬間、廊下の窓から夕方の光が差し込んできた。
橙色の光の中で、アリシアは初めて、作った笑顔ではない表情をした。
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第一話 了 / 次回「隣国へ」
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