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元社畜令嬢、婚約破棄されたので隣国で本気出します  作者: ハル


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第二十三話 「誰も損しない」

 ヴァルターからの返信が届いたのは三日後だった。


 王国側の卸業者三社の取引記録、仕入れ先の一覧、北部の農産物流通に関わる業者の相関図。ヴァルターらしい、必要以上に丁寧な資料だった。


 数字を並べると、一つのことが見えた。


 王国側の卸業者が価格を上げた理由は、さらに上流の農産物調達コストが上がっていたからだ。北部の農地から都市への輸送ルートが、去年の秋から一社に集中し始めていた。その業者が少しずつ通行料を引き上げた。農産物の価格が上がり、飼料も上がり、クロイツ側の輸送業者まで届いた。


 (川上どころじゃない)


 根は、もっと上にある。


━━━━━━━━━━━


 「セバスチャン、少し時間をいただけますか」


 午後、セバスチャンを書斎に呼んだ。紙を一枚取り出して、机の上に広げる。


 「図で説明します」


 「はい」


 アリシアは円を六つ描いた。それぞれに一、二、三、四、五、六と書く。


 「北部の取引に関わる主な商人が六者います。一は二への支払いを待ってもらっている。二は三に、三は四に、四は五に、五は六に、六は一に——」


 「……それは」


 「全員が全員を待っています。現金は誰の手元にも動いていない」


 沈黙があった。


 「つまり」とセバスチャンがゆっくり言った。「誰も実際には払えない、ということですか」


 「支払う現金を持っていません。手形を回しているだけです。どこか一社でも倒れれば、全員が連鎖します」


 セバスチャンが紙から目を離さなかった。「……気がついていなかった」


 「気がつきようがない。全体を一枚の紙に描かなければ見えない構造です」


━━━━━━━━━━━


 「では、どうするか」


 アリシアはもう一枚紙を取り出した。


 「一が二に百払う予定。二が三に百払う予定。三が一に百払う予定——この三者だけで考えます」


 「はい」


 「実際には、一は二に払わなくていい。二は三に、三は一に払わなくていい。全員の借金を同時にゼロにする」


 「……同時に、ゼロに」


 「誰も損しません。誰も得もしません。手形が消えるだけです」


 セバスチャンが顔を上げた。「それは可能なのですか」


 「数字の上では成立します。ただし、関係者全員を一か所に集めて、同時に合意を取る必要がある」


 「各者を同席させて」


 「そうです。一対一で個別に交渉しても動かない。全員で図を見せれば、話は早い」


 セバスチャンが少し間を置いた。「……全員が納得するでしょうか」


 「納得しない理由がありません。誰も損しないので」


 また沈黙があった。今度は少し長かった。


 「……三十年、この仕事をしています」

 「はい」

 「このような解を、見たことがありません」


━━━━━━━━━━━


 「もう一点」とアリシアは言った。「輸送業者の問題です」


 「ゴットハルトの件ですか」


 「ゴットハルトだけではない。北部の中継拠点を一社が押さえていることが発端です。競争がない。だから価格を自由に動かせる」


 「対策は」


 「入札にします。同じ区間を複数の業者が競えるようにする。価格は市場が決める」


 セバスチャンが少し考えた。「制度として整備するということですか」


 「はい。手形の件より時間がかかります。業者の選定基準、入札の手順、不正への対処。設計してから公示して、定着するまで半年は見る」


 「手形の件と並行して動かせますか」


 「こちらは今日から動けます。手形の件は来週、関係者を集めてからです」


 セバスチャンが一礼した。「承知しました」


 立ち去りかけて、止まった。


 「一点だけ確認させてください」


 「はい」


 「この手形の仕組みは——どこでお知りになりましたか」


 アリシアは少し考えた。「前の仕事で、似たようなことがありました」


 「王国でのご経験ですか」


 「……そういうことです」


 セバスチャンが一礼して、出ていった。


━━━━━━━━━━━


 しばらくして、クラーラが茶を持ってきた。


 「終わりましたか」


 「一段落です」


 「ディアス様が先ほど廊下をお通りになっていました」


 「そうですか」


 「書斎の前で少し止まっておられました」


 アリシアは紙を片付ける手を止めなかった。「何かご用があれば来られるはずです」


 「……そうですね」とクラーラが言った。少し間があって、部屋を出た。


━━━━━━━━━━━


 一人になってから、アリシアは紙を見た。


 六つの円と矢印。誰も損しない解。


 (前世では、これを「ネッティング」と呼んでいた)


 田中アリサとして働いていたとき、似たようなことが一度あった。取引先が連鎖的に支払いを止めて、部署全体が詰まりかけた。深夜に一人でスプレッドシートに同じ図を描いた。翌朝、上司に渡した。上司は「何これ」と言った。説明して、通って、解決した。「よくやった」と言われた。


 名前は呼ばれなかった。


 (今は、セバスチャンが「どこで知ったのか」と聞いた)


 理由は分からなかったが、少し違う気がした。


━━━━━━━━━━━


 同じ頃、王国の財務会議室では——


 「北部の輸送コストは引き続き上昇しています」財務卿が言った。「原因の特定が難航しており、対応策の検討に時間をいただいている状況です」


 「先月も同じことを言っていた」


 「申し訳ありません。ただ、根本の構造が複雑で——」


 「根本の構造とは何だ」


 財務卿が黙った。


 「答えられないなら、分かっていないということだ」


 「……はい」


 レオナルドは紙を置いた。「以前は」と誰かが言いかけた。財務卿ではなかった。隣に座っていた副財務卿だった。


 「以前は何だ」


 副財務卿が少し口ごもった。「……失礼しました。余計なことを申しました」


 「続けろ」


 「以前は、こういう問題が出たとき、もう少し早く……いえ。失礼しました」


 レオナルドは何も言わなかった。


 (以前は)


 その言葉だけが、少し残った。


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