第二十話 「なんとなく、違う」
午前中の業務を終えてまとめに入ったところで、書斎の扉がノックされた。
「どうぞ」
ディアスが入ってきた。
「昼食に行こう」
「……用件はありますか」
「ない」
アリシアは手元の書類から顔を上げた。「外に、ですか」
「城下を少し。行ったことある?」
「業務で何度か」
「今日は業務じゃないよ」
アリシアは一度ディアスを見て、机の上の書類を見た。午後に残している分は夕方までに仕上げれば問題ない。どこか引っかかりはあったが、何に引っかかっているのかが言葉にならなかった。
「……分かりました」
ディアスが少し笑った。何がおかしかったのか、分からなかった。
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城下の商人通りは昼前の人通りがあった。
クラーラが三歩後ろをついてきている。ディアスは公爵家の紋章を外した上着で、歩いていると目立たないというほどでもなかったが、声をかけてくる者はいなかった。
「どこに行くんですか」
「決めてない。歩いて決めよう」
アリシアは「……そういう決め方をされるんですか」と言いかけて、止めた。
通りを歩くと、両側に店が並んでいた。織物屋、乾物屋、小さな食事処。月次の数字の中で名前だけ見ていた商圏が、実際に並んでいる。アリシアは無意識に店先を確認しながら歩いていた。客の入りと品揃えと、値札の付け方と。
「面白い?」
「……何がですか」
「今、全部見てるよね」
アリシアは少し止まった。「仕事の癖です」
「そう」ディアスが言った。「それでいいよ」
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ディアスが立ち止まったのは、通りを一本入った路地の奥にある食事処だった。看板もなく、扉に小さな木札が下がっているだけだ。
「ここでいい?」
「……営業していますか」
「してる。俺がたまに来るだけで、あまり知られてない」
中に入ると、六席ほどしかなかった。老いた女性が一人でやっていて、ディアスの顔を見て「いつもので?」と言った。ディアスが「二人分」と返すと、何も聞かずに奥へ引っこんだ。
クラーラは扉の外に残った。通りに人の気配がもう一つあったが、アリシアは確認しなかった。確認しても何も変わらないと思ったからだ。
席は窓際の二人がけだった。
しばらくして、料理が運ばれてきた。
豆と根菜を煮込んだもので、厚みのあるスープに黒パンが添えられている。見た目は素朴だった。
アリシアはパンを手に取って、一口スープに浸して食べた。
止まった。
(何だ、これは)
味を分析しようとして、できなかった。おいしいかどうかより先に、何か別のものが来た。遠い、記憶の底にあったものが引き出されるような感覚だった。王国でも、クロイツでも、令嬢として食べてきたものではない。もっとずっと前——働き始める前、名前もまだ田中アリサだったころ、休みの日に母親と入った小さな食堂のような。
そんなものがあったことすら、今日まで忘れていた。
「どうした?」
ディアスが言った。アリシアは顔を上げた。
「……おいしいです」
「そっか」
それだけだった。ディアスは何も聞かなかった。アリシアはもう一口食べた。また同じものが来た。うまく言葉にならなかったが、悪くなかった。
(悪くない)
それが今出てくる言葉の全部だった。
ディアスが手元を見ながら、静かに言った。「その顔、初めて見た」
「……何かありましたか」
「いや」少し間があった。「何もない」
アリシアは自分の顔が今どういう状態なのか確認する方法がなかったので、スープの続きを食べた。
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食事が終わる頃、ディアスが通りの話を続けた。
乾物屋の主人が今年から息子に代替わりしたこと、新しく入った布屋が繁盛していること。業務の報告ではなく、ただの話だった。アリシアは「そうですか」と返しながら聞いていた。
話の中でディアスが「帰りに角の饅頭屋に寄ろう」と言った。
「……饅頭屋ですか」
「クラーラが好きなんだよ。俺も嫌いじゃない」
(饅頭屋)
そういえば、来るときに角の店で甘い匂いがした。
「……確認してみます」
「確認って何を」
「どんな饅頭か」
ディアスがまた笑った。今度は少し長かった。アリシアはそれがなぜなのかを考えようとして、やめた。
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帰り道、角の饅頭屋の前でディアスが足を止めた。
店先に小さな籠が出ていて、三種類並んでいた。アリシアは近づいて、一つずつ確認した。粒あんと白あんと、季節の果物を使ったもの。
「どれにする?」とディアスが言った。
「……クラーラへのですか」
「全員分」
アリシアは少し考えた。「白あんを」
「理由は」
「……特にないです」
「さっきと違う」
「さっき」
「通りの話のときは全部理由があった。今は理由がない。それでいいんじゃないかと思って」
アリシアは黙った。ディアスは何かを待つような顔をしていなかった。ただ言っただけ、という感じだった。
三人分の白あんを買って、歩いた。
クラーラに手渡すと「……ありがとうございます」と小声で言われた。表情は動いていなかったが、受け取り方が少し丁寧だった。
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屋敷に戻って書斎に入り、午後の作業を進めた。来月の提案を一枚にまとめ、セバスチャンへの確認事項を整理した。窓の外が暗くなり始めたころ、クラーラが茶を持ってきた。
アリシアは受け取って、少し考えてから言った。
「クラーラ」
「はい」
「今日のディアス様、なんか……いつもと違う気がしました」
クラーラが少し間を置いた。「どう違いましたか」
アリシアは考えた。真剣に。
「用件がなかったです」
「他には」
「……業務の話を、向こうから聞いてきました」
「他には」
「帰りに饅頭屋に寄りました」
「他には」
「……食事処で、自分の顔がどういう状態なのか分かりませんでした」
「他には」
しばらく考えた。
「……分かりません」
短い沈黙があった。
クラーラが小さくため息をついた。「そうですか」
「何か分かりますか」
「……アリシア様が分からないことは、私には申し上げられません」
アリシアはクラーラを見た。クラーラはまっすぐこちらを見ていた。
それ以上は続かなかった。
アリシアは茶を一口飲んで、机に向かった。
(なんとなく、違った)
それは確かだった。ただ、何が違ったのかが言葉にならなかった。
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後から思い返すと、あの食事処でスープを食べていたとき、自分が笑っていたかもしれないと気づいた。
ディアスが「その顔、初めて見た」と言ったのは、そういうことだったのかもしれない。
気づいたのは、もっとあとのことだった。
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同じ頃、王国の貴族院では小さな話題が出ていた。
王太子殿下の伴侶として社交界に出始めたエミリア・ローゼン嬢のことだ。数ヶ月前から令嬢たちの間で「席が空いた」「間が空く」という話が出ていたが、今月に入って、それが初めて男性側の耳に入った。侯爵家の嫡男が「令嬢たちの間で何かあるようですね」と財務卿に話したのを、その場にいた三名が聞いていた。
笑い飛ばした者が二人。黙って聞いていた者が一人。
翌日には別の席でも同じ話が出た。
レオナルドの耳にはまだ届いていない。ただ、届くのは時間の問題だということを、この場にいた全員が理解していた。




