第十九話 「そういう言葉を」
商工会は月に一度、クロイツ商人ギルドが主催する集まりで、今日は
七十名近くが参加すると聞いていた。
クラーラが廊下で待っていた。
「資料は三部です。ヴォルフ長がご用意くださっています」
「ありがとうございます」
アリシアは受け取って、一度中身を確認した。先月末の集計と、来月
に向けた提案の概要。二ページで十分だと判断した。
「緊張していらっしゃいますか」
「いいえ」
「そうですか」クラーラが少し安心したような声で言った。「よかった」
なぜよかったのか聞こうとして、止めた。業務上の問題ではない。
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会場に入ると、すでに数人の商人が来ていた。
「先生!」
奥から声がした。振り返ると、ヴァルターが手を上げている。五十代
の大柄な商人で、数ヶ月前の南交易路の整備に最も早く乗ってきた人物だ。
「ヴァルターさん」
「今日はどうぞよろしく。南部の数字、先月も好調でしたよ」
「確認しています。来月もそのペースで動くと見ています」
「そうですか」ヴァルターが笑った。「先生がそう言うなら信じます」
アリシアは「先生」という呼称に、今日もまだ慣れていないことを
確認した。ヴォルフ長がいつ広めたのかは不明だが、今ではギルド内
の全員が使っている。
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定刻に始まった。
アリシアは先月の数字を説明し、来月の方針の骨格を伝えた。商人
たちは真剣に聞いていた。質問が四つあった。一つは数字の読み方に
ついての確認で、残り三つは具体的な取引に関するものだった。
終わった後、複数の商人が近づいてきた。
「先月の取引、うまくいきました。先生のアドバイス通りにやって
みたら」
「業務上の提案が形になってよかったです」
「おかげで助かりました、本当に」
「結果が出たのはご自身の判断と実行があったからです」
「いやいや、先生がいなければ」
アリシアは「いいえ」と返して、次の人の話を聞いた。また似たよ
うな言葉が来た。また「いいえ」と言った。
四人目が来たとき、アリシアは自分が何度「いいえ」を言ったか
数えていた。
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(なぜ毎回「いいえ」と言っているのか)
会が終わって、端の席に座って資料をまとめながら考えた。
事実として、提案を実行したのは各商人自身だ。リスクを取ったの
も彼らだ。だから「いいえ」は間違っていない。
でも。
一度言えばいいことを、四回言っていた。
(受け取れていないのか)
その言葉が浮かんだとき、少し止まった。
受け取れないのではなく、受け取り方が分からない、という方が
正確かもしれない。
王国にいたころ、礼を言われたことがなかった。仕事は水面下で
動いていたから、誰に何をしたのかさえ知られていなかった。それが
当たり前だったし、周りもそれを疑わなかった。前世の田中アリサも
同じだった。働いていることが空気のようで、終わっても「よかった」
と言われるより先に次の課題が来た。
だから「ありがとう」が来たとき、次に自分が何をすればいいのかが
判断できない。処理の仕方が、そもそもなかった。
毎回「いいえ」と言っていたのは、それ以外の返し方を知らなかった
からだ。
それは気づいていなかった。
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「少しよろしいですか」
ヴァルターが来た。大半の商人が帰り始めていた。
「はい」
「立ち話で申し訳ないんですが」ヴァルターは手元の荷物を一度
下ろした。「先生は、クロイツでの仕事が楽しいですか」
アリシアは止まった。
「……業務の手応えはあります」
「それは分かっています。先月の数字を見れば誰でも分かる」
ヴァルターが笑った。「私が聞きたいのはそこじゃないんですが」
「楽しいかどうか、ということですか」
「そうです」
(また同じ問いだ)
先週の報告の席で止まった引っかかりが、また来た。ヴァルターは
急かさなかった。ただこちらを見ていた。
「……先月より今月の方が、数字の動き方が面白くなっています」
「それは楽しいということですか?」
「……そう解釈されても、否定はしません」
ヴァルターが笑った。「先生は正直な方だ」
アリシアは「……そうですか」と返して、それ以上の言葉が出なかった。
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会場を出ると、ディアスが廊下にいた。
「来ていたんですか」
「少しだけ。終わったの?」
「終わりました」
「どうだった」
アリシアは少し考えた。「商人の方々から、先月の取引の報告を
いただきました。数字は想定の範囲内でした」
「それだけ?」
「……ヴァルターさんに、楽しいかと聞かれました」
ディアスが少し笑った。「何て答えたの」
「否定はしませんでした、と」
「あなたらしい」
「あなたも聞きますか」
「聞かない。今は」
少し間があった。廊下の先を見ながら言ったので、どういう顔だった
か分からなかった。
アリシアはその答えを処理しようとして、うまくいかなかった。
「今は」とはどういう意味か。別の機会に聞くということか。それとも
もう聞かないという意味か。
聞こうとして、止めた。
廊下を並んで歩いた。クラーラが少し後ろをついてきている。
アリシアは歩きながら、今日「いいえ」を四回言ったことを思い
出した。
受け取れないのではない。受け取り方が分からないだけだ。
(それは、いつか分かるものなのか)
分からなかった。ただ、今日は答えが少し変わっていた。「いいえ」
ではなく「否定はしません」になっていた。
小さな違いだが、どこか違う気がした。




