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元社畜令嬢、婚約破棄されたので隣国で本気出します  作者: ハル


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第十五話 「数字の外」

朝、鏡の前でクラーラが言った。


 「アリシア様、今日はこれを」


 昨日の飾りだった。


 「仕事中ですが」


 「今日は外部の方との打ち合わせはありません。屋敷の中だけです」


 アリシアはしばらく鏡を見た。クラーラが静かに待っている。


 「……では」


 クラーラがそっと髪に挿した。


━━━━━━━━━━━


 午前中、アリシアはハルト男爵から届いた資料に目を通していた。先月約束していた流通改善の試算だ。数字は整然としていて読みやすい。準備がいい人間だとあらためて思った。


 セバスチャンが入ってきた。「公爵様が午後にお時間を取ってくださるとのことで、報告会を設けました」


 「分かりました」


 「それから、来月の商工会の会合に来てほしいという要望が三件入っています。先生として、と」


 「内容を整理して午前中に見せてください」


 セバスチャンが出ていく。アリシアは資料に戻った。


━━━━━━━━━━━


 午後の報告はディアスの執務室で行った。


 数字を並べて説明する。ディアスはいつもどおり上座で、時折質問を挟みながら聞いていた。


 「ハルト男爵との直販ルート、来季から本格稼働できそうですね」


 「見込みとしては。ただ王都側の商会が一社、態度を保留しています。先方の動きを確認してから確定します」


 「そっちはこちらから打診してみる」


 書類を整えながら、アリシアは報告を続けた。数字を並べて、課題を挙げて、次の手順を示す。いつもと同じ流れだった。


 ひと通り終えて書類を揃えたとき、ディアスが言った。


 「それ、いいね」


 「……はい?」


 「髪の飾り」


 アリシアは少し止まった。「ああ、昨日朝市で」


 「うん。似合う」


 それだけ言って、ディアスはすでに次の書類に目を向けていた。


 「以上です。他にご確認事項はありますか」


 「今日はない。ご苦労」


 執務室を出た。


━━━━━━━━━━━


 廊下を歩きながら、アリシアは今の一言を頭の中で確認した。


 似合う。


 業務上の言葉ではない。でも何か対応が必要な言葉でもない。ただの、一言だ。


 処理しようとした。雇用主が部下の身なりに言及することはある。職場環境として自然な範囲だ。


 (そういうことだろう)


 そう判断した。


 ただ、廊下の半分ほど歩いたところで、もう一度同じ言葉が頭の中に戻ってきた。


 似合う。


 (なぜ二回考えているのか)


 自分でも分からなかった。書斎に戻って資料の続きをやるべきだと思った。


━━━━━━━━━━━


 夕方、クラーラが茶を持ってきたとき、アリシアはまだ机に向かっていた。


 「クラーラ」


 「はい?」


 アリシアは少し間を置いた。「誰かに何か褒められたとき、どうするものですか」


 クラーラが止まった。「……どうする、というのは」


 「何か、返すものですか」


 クラーラがアリシアを見た。しばらく黙っていた。「ありがとうございます、と言えばいいと思いますよ」


 「そうですか」


 「アリシア様、何かあったんですか?」


 「いいえ」とアリシアは言った。「確認しただけです」


 クラーラが「そうですか」と言って、扉を閉めた。何となく笑っていたような気がしたが、確認しなかった。


 アリシアは茶を一口飲んだ。


 (なぜ確認したのか、自分でも分からなかった)


━━━━━━━━━━━


      *


 同じ頃、王都では。


 第二四半期の南部三領の税収報告が財務卿の机に積まれたまま、三日が経っていた。


 廊下でそれを知ったレオナルドは、執務室の扉を開けながら小さく息を吐いた。


 「また南部か」


 誰に言うわけでもなかった。ただ最近、こういう報告が増えている。数字の問題なのか、担当者の問題なのか、自分には判断がつかなかった。


 机の上には今日だけで六件の未処理案件がある。以前はこんなことはなかった気がするが、いつからそうなったかは思い出せなかった。


 翌朝、南部商業区の織物取引量の集計が出た。前年比、十七パーセントの減少だった。その報告書も、しばらく誰の手にも取られなかった。

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