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元社畜令嬢、婚約破棄されたので隣国で本気出します  作者: ハル


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第十二話 「クラーラの朝」

 書斎の扉の前に立ったのは、夜明け前だった。


 クラーラは廊下を歩きながら、扉の下から灯りが漏れているのに気づいた。止まった。


 (……まだ)


 時刻を確認するまでもなかった。鐘はまだ鳴っていない。朝の業務開始は六時で、アリシア様への挨拶はその前に済ませるつもりだったが——もう起きている、どころの話ではなかった。


 扉を軽くノックした。


 「はい」


 すぐ返答があった。


 「クラーラです。失礼します」


 扉を開けると、書斎の中には資料が広がっていた。机の上に何枚も。ランプの光が当たって、アリシアが羽根筆を動かしている。


 「……何時ですか」とアリシアが聞いた。視線は資料に向いたままだった。


 「五時前です、アリシア様」


 「そうですか」


 それだけだった。羽根筆が止まらなかった。


 (えっと、これは、もう何時間も……?)


 クラーラはしばらく立ったまま、どう声をかけるか考えた。昨日ディアス様から渡された指示書には、「朝食を必ず取らせること」と書かれていた。一行だけ、筆跡は簡潔だった。


 「アリシア様は、今日の朝食はどうされますか」


 「食べます」


 「今は、ですか」


 「業務が一区切りついたら」


 (その区切りはいつ……)


 クラーラは顔に出ないよう努めたが、出ていたかもしれなかった。


━━━━━━━━━━━


 一区切りがついたのは、七時を過ぎた頃だった。


 アリシアが筆を置き、背筋を伸ばした。首を少し傾けると、かすかに音がした。


 「朝食にしましょう」


 「はい」とクラーラは答えた。「用意します」


 準備をしながら、クラーラはちらちらとアリシアを見た。二時間以上、ずっと書き続けていたはずだった。それなのに顔に疲れが見えない——少なくとも、そう見えた。


 (顔を読める、と言っていたのは昨日なのに、私には読めない)


 「何か?」


 アリシアがこちらを見ていた。


 「あ、いいえ。何でもないです」


 「顔に出ていましたよ」


 (またですか)


 「……少し不思議だと思いまして」とクラーラは答えた。


 「何が」


 「二時間以上書かれていたのに、お疲れの様子がないように見えて」


 アリシアはしばらく考えた。「疲れていないわけではありません」


 「え?」


 「ただ、疲れたら止まることを覚えました。最近」


 クラーラの手が一瞬、止まった。「……最近、ですか」


 「クロイツに来てから」


 アリシアはそれ以上言わなかった。カップに視線を落とした。


 (前は、止まらなかった。そういうことを言っているんだろうか)


 クラーラにはその「前」がどういうものだったか分からなかった。でも、何か長いものの話をしているような気がした。


━━━━━━━━━━━


 朝食の席は書斎続きの小部屋だった。


 テーブルは小さくて、窓から朝の光が入っている。アリシアがパンを手に取るのを、クラーラは少し離れた位置で確認した。セバスチャン様から「食事中は離れていていいが、目は離すな」と言われていた。


 アリシアは小さく一口食べた。しばらく何かを考えているような顔になった。それから、もう一口。


 朝食の席に、ディアスが来た。


 「おはよう」


 戸口に立ったまま、中を見た。アリシアがパンを食べているのを確認して、それだけで「ご苦労」とクラーラに言い残して去った。


 ほんの十秒ほどのことだった。


 (……確認しにきた)


 クラーラはそれを見ていた。わざわざ来て、食べているのを見て、そのまま行く。それだけのことを、朝の忙しい時間にしていた。


 アリシアはパンを食べ続けていた。「よく来られるんですか」とだけ言った。


 「今日が初めてです」とクラーラは答えた。


 アリシアは少し間を置いた。それ以上は何も言わなかった。


 「クラーラ」


 「はい」


 「何か困ったことはありましたか。昨日から今日にかけて」


 突然の質問だった。


 「困ったこと……ですか?」


 「専任になって二日目です。分からないことがあるなら、今のうちに聞いてください」


 (あ。この人は、聞いてくれる人なんだ)


 クラーラはそれをはっきりと理解した。昨日、「どんな方を想像していましたか」と聞いてきたのも、「正直な方が参考になります」と言ったのも——全部つながっていた。


 「一つだけ、聞いてもいいですか」


 「どうぞ」


 「毎日、あのくらいの時間から書き始めていらっしゃるんですか」


 アリシアはパンを置いた。「そうです」


 「……毎日」


 「起きてすぐの時間は整理に向いているので」


 それは習慣というより、もっと古いものを引きずっているような言い方だった。クラーラには前の話は分からない。ただ、アリシア様の中にある「当たり前」が、自分の「当たり前」とかなり遠い場所にあるとは感じた。


 「なるほど、です」とだけ答えた。


 アリシアがまた食事に戻った。外では朝の鳥の声がしていた。


━━━━━━━━━━━


 昼前に、ディアスが廊下でクラーラを呼び止めた。


 「アリシアは朝食、取った?」


 「はい。七時過ぎに」


 ディアスが少し間を置いた。「七時過ぎ」


 「五時前から書かれていたようで、一区切りついてからと」


 「……そう」


 何か言いたそうな顔をしていたが、それ以上は出てこなかった。


 「自分から確認しに行ったわけでは……」とクラーラは続けた。「部屋に伺ったときにまだでしたので、声をかけただけです」


 「分かった。ご苦労」とディアスは言った。


 それだけで行ってしまった。


 (公爵様は、アリシア様のことをよく気にかけていらっしゃる)


 廊下に一人残ったクラーラは、昨日からのことを少し頭の中で整理した。朝食の指示、クラーラを専任にしたこと、夕食で「ちゃんと休めたか」と聞いていたこと——全部バラバラに見えて、一本の線でつながっていた。


 (アリシア様はそれを「雇用主として」と言っていたけれど)


 クラーラにはそうは見えなかった。


 でも、それを言葉にするのは自分の仕事ではないと思った。


━━━━━━━━━━━


 夕方、書斎にお茶を持っていくと、アリシアが資料に向かっていた。


 「お茶をお持ちしました」


 「ありがとう」


 カップを置いてから、クラーラはすぐ下がらなかった。


 アリシアが資料に戻るのを見ていた。羽根筆が動き始めると、さっきまでとは別の顔になった。集中、というより、もっと静かな何かだった。


 (……速い)


 何が速いのかうまく言えなかった。でも、ページをめくる手が迷わなかった。読んで、確認して、また書く。その一連の流れに無駄がなかった。


 (この人は、ずっとこれをやってきたんだ)


 どのくらい前から、とは聞けなかった。でも、そういう時間の積み重ねが全部、今ここにあるような気がした。


 しばらくして、アリシアが窓の外を見た。「今日は天気がよかったですね」と言った。


 クラーラは少し驚いた。天気の話を、アリシア様がするとは思わなかった。


 「はい。中庭もきれいでした」


 「そうでしたか」


 短い沈黙があった。


 「明日も、朝に伺います」とクラーラは言った。


 アリシアが少し間を置いてから、「よろしくお願いします」と答えた。


 その返し方が、昨日より少しだけ、ゆっくりだった気がした。


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