第十一話 「散歩の仕方」
書斎の扉が閉まる音がした。
廊下はひっそりと静かで、夕方前の光が窓から差し込んでいる。遠くに使用人が一人、物を運んで通り過ぎるのが見えた。
(……どこに行けばいいんだろう)
田中アリサとして会社にいた頃も、「早く帰ってもいいよ」と言われると困った。帰っても何もなかった。やることがない時間の使い方が、前世でも今世でも分からなかった。
とりあえず廊下を歩き始めた。目的地はなかった。
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「アリシア様」
声がした。
振り向くと、廊下の角から小柄な少女が小走りで近づいてきた。白いエプロン、黒い髪をうしろでまとめている。十七か十八ほどの年頃で、頬がわずかに赤い。
近づきながら、速度を少し落とした。
「……失礼しました、突然呼び止めてしまって」
「構いません。あなたは」
「クラーラと申します。本日より、アリシア様の専任をさせていただきます」
アリシアはしばらく彼女を見た。
(専任。セバスチャンさんからは聞いていなかった)
「公爵様より、ご指示をいただきました。アリシア様のお世話を担当するように、と」
(公爵様が……)
その言葉の意味を、アリシアはしばらく頭の中で転がした。食事の話が出たことがあった。「今夜は資料を持ち込まなくていい」と言われたことも。それから今日——「早く上がっていいよ」。
そのどれも、その場では流して受け取っていた。
一本の線で繋がるものがあった気がしたが、結論まで出す前に止まった。
「分かりました。よろしくお願いします、クラーラ」
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします」
クラーラが深く頭を下げた。顔が上がった瞬間、何かが出ていた。
アリシアは少し考えてから、「何か困りましたか」と聞いた。
「……え? い、いえ、全くそんなことは」
「もっと別の方を想像していた、ということですか」
クラーラが固まった。「……よくご存知でしたね」
「顔に出ていたので」
「し、失礼しました!」
「いえ」とアリシアは答えた。「気にしていません。どんな方を想像していましたか」
クラーラが言葉に詰まった。(もっとその、冷たいというか近寄りがたいというか……いや、そういうことをそのまま言うのは)でも顔には全部書いてあった。
「……少し、怖い方かと」
「そうですか」
「あの、失礼なことを言いました」
「いいえ。実際に会う前の印象は、正直な方が参考になります」
クラーラが、また少し不思議な顔をした。
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「アリシア様は今日、どちらへ行かれるのですか」
二人で廊下を歩きながら、クラーラが聞いた。
「分かりません」
「……え?」
「上がっていいと言われたので廊下に出ましたが、行き先が特にないことに気づきました」
クラーラがしばらく黙った。(え、何それ……)が顔に出ていた。
「また出ていますよ」
「す、すみません!」
「謝らなくていいです。読みやすいので」
「読みやすい……?」
「顔を見れば考えていることが分かる、という意味です。今の顔は何ですか」
クラーラがわずかに赤くなった。「その……行き先がないまま廊下にいらっしゃるのが、少し」
「少し?」
「少しかわいそうだなと」
アリシアは一瞬、止まった。
(かわいそう)
田中アリサとして生きてきて、そう言われたことは一度もなかった。同情でもなく、ただ率直な感想として。
返す言葉がすぐ出てこなかった。
「……そうですか」
「お外に出てみますか」とクラーラが言った。「中庭が今、花が咲いていてきれいですよ」
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中庭は確かにきれいだった。
季節の花が並んでいて、夕方前の光がそこに当たっている。石畳は乾いていて、歩くと靴の音がした。
アリシアはとりあえず歩いた。
(散歩とは、こういうことか)
田中アリサとして東京で働いていた頃、公園を歩いたことがあっただろうか。あったかもしれないが、次の会議のことを考えながらだったと思う。今も少し、中庭の土の状態が気になった。水はけを確認する癖が出た。
「……アリシア様」
「何ですか」
「考えごとをされていますよね」
アリシアはクラーラを見た。「分かりましたか」
「はい。さっきから目の焦点が遠いです」
(顔に出ていたか)
「散歩中に仕事のことを考えるのは、よくないですか」
クラーラが少し困ったような顔をした。「……そういうことを聞く方は、初めてです」
「マナーとして問題があるなら改めます」
「そういう話では……」
二人でしばらく歩いた。クラーラが黙っているのは、何か言おうとして迷っているような間だった。
「アリシア様は」と彼女が言った。「休むの、お好きじゃないんですか」
「好き嫌いで考えたことがありませんでした」
「……なんでですか」
「必要なことをやっていたら、休む時間が残らなかっただけです」
クラーラがまた、何かが顔に出ていた。今度は驚きとも困惑とも違う、もう少し柔らかい種類のものだった。
アリシアにはその意味が読めなかった。
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夕食の席に、ディアスが来た。
向かいに座って、グラスを手にしながら、「今日、ちゃんと休めた?」と聞いた。何気ない口調だった。
「中庭を歩きました」
「クラーラと?」
「はい」
ディアスが少し目を動かした。入り口近くに控えているクラーラを一瞬見て、それからアリシアを見た。
「よかった」
それだけだった。料理に視線を落として、グラスを傾ける。
(よかった、か)
アリシアはその一言をしばらく頭の中に置いた。
クラーラを専任にしたのは公爵様で、「早く上がっていい」と言ったのも公爵様で、「ちゃんと休めたか」と聞くのも公爵様だった。
「ディアス様は」とアリシアは言った。「食事を抜くことを気にされていますか」
「気にしてるよ」
「それがクラーラを専任にした理由ですか」
「半分はそう」
アリシアは頷いた。それで納得するつもりだった。
「……もう半分は」とディアスが続けた。グラスを置いた。「クロイツに来てからも、ひとりで全部終わらせようとするだろう」
アリシアはしばらく黙った。
(クロイツに来てからのことを言っている。事実として、そうだった。健康管理の延長として解釈できる——ただ、言い方が)
「……雇用主として、ということですか」
ディアスが少し困ったような顔をした。今夜もその意味が読めなかった。
「そういうことにしておいていいよ、今は」
「分かりました」
アリシアは料理に視線を戻した。
クロイツに来てから、食事が美味しいと思う余裕が少しずつ出てきた気がした。前世でも今世でも、そういう余裕は持ったことがなかった。
(田中アリサも、こういう時間を知っていたら少し違ったかもしれない)
心の中でだけ、そう思った。




