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ベルナルディーナの不文律  作者: 文乃 優
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第41話 世界の正体

「作業者? 普通の名前ではないのね。その設計図はどう作るのかしら?」

 

 ストレートに疑問をぶつけるキュア。老婆も負けじと流れるように答える。どうやら部外者との久々の会話を楽しんでいるようだ。強い口調にもかかわらず、口元は常に緩んでいる。眼尻も下がり、微笑ましい顔つき。まるで孫を慈しむ祖母のようだった。


 老婆の仕事は、設計図の原本管理である。原本と言っても、書籍のような紙ではない。小さな光の球体だ。それが大樹の中に収まっている。どう収まっているのかはわからないが、とにかく地上のあらゆる生命や物質の設計図が収納されているという。


「お嬢ちゃんには、実際に見せた方がいいだろうね」


 老婆が樹皮に右手をかざす。手のひらには、小さな光の玉が何万という数ひっついている。祈るような恰好で左手と合わせる。すると同じように左手にも無数の光の玉が発生した。


「いいかい。今のが魂、つまりお前さんたちが設計図と呼んでるものの複製だよ。右手が素となるもの。左手がこれから地上に向かうものたちだ」


 老婆は左手を上に向け、光の玉をすべて放った。球体は筋となり、左手からは、放射状に光が拡散していくように見えた。そして右手をまた樹皮にかざすと、原本である球体が音もなく吸い込まれて行った。


「これが生命と世界を産み出す作業さね。あとはお前さんたちが、知ってるとおりだね」


 一方で大樹へ戻って来る球体もあった。老婆がその一つを捕まえると、フッと息を吹きかける。球体は途端に消滅してしまった。命そのものの消失を見るようで、キュアとヤーナは不安げな顔になった。


「これは死んで戻ってきた方。複製された魂の方さね。不要になったり、本体が壊れたりしたら、ここへ戻って来るように仕込まれているだけさ。なぁに心配は要らない。複製前の本物の方は、ちゃんとこの樹に保存されているんだから」


「あの…これだけですか?」


「そうさね。魂の管理が仕事だからね。そしてあたし自身も設計図で造られた存在さね。まぁ、年齢以外は普通の人間と変わらないってことさ」


 ”よっこらしょ”と老婆は椅子に腰を落ち着けた。ふぅとため息をつくと、一仕事終えたとばかりに、残っていた紅茶を飲み始めた。


 謎がまったく解けていない。設計図を扱う工程は直に見ることができた。仮説も確信に変わった。確かにその甲斐はあった。しかし肝心な設計図の作り方がわからない。


「あたしは”作業者”だと言ったろ。作業するだけなのさ。設計図の作り方なんて知らないよ。だから最初に、”期待には応えられない”といったのさ」


 母娘は、この老婆が”魂の作者”と勝手に思い込んでいた。一番目立つ樹木の中に住んでいて、魂を操っている姿を見れば無理もない。彼女もまた誰か、あるいは何かに命じられて長い歳月、同じ作業をし続けている単なる人間に過ぎないのだ。


「では、あなたを作ったのは誰ですか?」


 今度はヤーナが矢も楯もたまらず、質問を投げかける。もう少しで世界の真理に到達しそうだ。だが、いまいち(まと)がずれている。じれったい感覚だ。


「さぁねぇ。…わからないよ。気がついたらあたしはここで作業をしていた。その前の意識も記憶もない。だから魂の作り方もわからないし、目的もわからない。自分が何者かもよくわからない。ただ与えられた仕事を忠実にこなすだけさね」


 ズズズっと音を立てて紅茶を啜る。それにつられて、母娘も紅茶を啜る。部屋全体にリンゴと桃の香りが広がった。


「ごめんねぇ、ここまで来てもらったのに…」


 老婆がすまなそうに謝る。だがこの作業者は、毎日同じ単純作業をひたすら繰り返して来たのだ。とてつもない年月を。それを思うと責める気にはなれなかった。


「設計図のことはわかりました。では”記憶”の方はどうなってしまうんですか?」


 キュアは怯まなかった。さすが、名前のとおりの好奇心の強さだ。

 途端に老婆が表情をこわばらせた。今まで流暢だった言葉が、ピタリと途切れてしまった。部屋には重い空気が流れた。


 重々しく口を開く。


「…記憶については触れてはいけないよ。それはタブーだよ」


 声のトーンが下がっている。声をできるだけ小さくしようと、母娘に近づいてくる。


「どうしてタブーなんですか?! 理由を教えてください!」


 老婆とは反対にキュアは声を荒げた。自分が追い求めてきた、最も知りたい事を隠している。そう思うだけで、彼女の知的探求心は今にも爆発しそうだった。


「ふむ。では我が答えてやろう」


 キュアたちが座るテーブルの反対から、ふいに声がした。

 そこには、少女とも少年ともつかない小柄な人間が立っていた。中性的な外見で性別はわからない。白い服で身を包んでいる。身長は低いが髪は長く、床に着きそうだ。黒髪の黒眼。眼光は鋭い。肌は青磁のように青白く滑らかであり、どこか冷たさを感じる。全体的に不自然なくらい均整の取れた造形だ。まるで人形がショウケースから飛び出て来たようだ。


 気配も感じさせずこの者は現れた。部屋の扉は一つしかない。当然開けば音がするはずだ。瞬間移動の使い手ということだろう。


 白服の者を見るや、老婆が椅子から転げ落ちるようにして、床に平伏した。尊敬の念ではない。これは畏怖からの行動だ。


「も、申しわけございません。この者たちが記憶についてのタブーを」


「よい。この場所に来られるだけでも、こやつらは特別な者達だ。こういう特異点があるから我の行為には意味があるのだ。これまので行為が、あるいは今日報われるやもしれぬ」


「はは、お許しいただき、ありがとうございます」


 老婆はなおいっそう平伏する。

 この2人が主従関係にあるらしい事はわかった。だが会話の内容がさっぱり理解できない。


「ヤーナとキュアか…」


 名乗ってもいないこの白い人物から、ふいに名前を呼ばれた。老婆が心を読めるのだ。その主人もまた心が読めるということだろう。母娘は勝手に納得して、素早く思考を切り替えた。


「我の名はベルナルディーナ。この世界の創造主だ」


◇ ◇ ◇


 一度場面は、技術アカデミーの講堂に戻る。


 当然のことながら、同じ名前を持つ「猫の大食亭」店長の娘”ベルナルディーナ”へと全員の目が集まった。当の本人は呆けた顔で「え? わ、私は何も知りませんよ!」とばかりに、猛烈な勢いで手をブンブン振って否定する。果たして名前の一致は偶然なのだろうか。


◇ ◇ ◇


「世界の創造主…ということは、何でもご存じなのですね?」


 キュアは強い口調で迫る。もはや好奇心の塊となった彼女は止められない。たとえ相手が神であろうと悪魔であろうと、容赦なく問答を続けるだろう。


「記憶に関してだったな。それは世界の根幹にかかわることだ。私の過去の失態でもある。話してしんぜよう」


 白くて小柄なベルナルディーナは、未だに床に這いつくばっている老婆に珈琲を要求した。注意して淹れるようにと、あれやこれやと細かく指示を出していた。どうやら、かなりのこだわりがあるらしい。


 何でも創造できる創造主なら、珈琲くらいパッと自分で出せばいいのに。キュアがそう思うと、心を見抜いた創造主は「万能とは幻想なのだ」と意味深に言い切った。ただしお湯は一瞬で沸くようだ。キッチンからは、直ぐに香ばしく濃厚な珈琲の香が漂ってきた。


 彼が老婆の出した珈琲をおもむろに啜り始める。珈琲の香が、今までこの部屋を満たしていた紅茶のフルーティーな香りを打消した。濃い目の珈琲がお好みのようだ。


「質問ばかりでごめんなさい。あなたが世界の創造主なら、あなたを作った人は誰なんですか?」


 ズズッ。ベルナルディーナが珈琲を大きく啜ると、眉間に皺を寄せた。


「それは”始まりの議論”だな。説明するのも面倒だが、納得しないと先に進まんようだから言っておく。始まりとは”時間”を定義して生まれる考え方の一つにすぎぬ。”時間”を解明できぬ者が、始まりを追求することに意味はない」


「確か”時間の設計図”もありますよね。解明はできているんですよね?」


「その設計図は、お前たちがかりそめに時間と呼んでいる物にすぎぬ。特定の物体の時間を巻き戻すことはできても、世界全体の時間を巻き戻す設計図などないであろう?」


 それを聞いて、ヤーナはピンと来た。そうだ。物の時間を止めたり巻き戻したりすることはできても、空間自体の時間を操作する設計図を見たことがない。たとえば、世界全体に向け、”今から1年前に戻れ!”と念じても実現しない。それはヤーナもキュアも実験済だった。


「なぜなら、我も含め時間の理解ができておらぬからだ。では我から問うぞ。”時間”とは何だ?」


「変化……でしょうか?」


 ヤーナが恐る恐る答える。


「では、まったく変化のないものは、時間が止まっているのか?」


「…そうだと思います」


「それが間違いだとしたら?」


「わかりません。私たちは時間を”物の変化”でしか捉えられません」


「その通りだ。知覚できぬことはイメージできん。すなわち設計図も書き換えられぬし、作ることもできぬ」


 ベルナルディーナが、小さく可愛らしい口を珈琲カップへ近づける。香りを愉しみながら、そっと含んだ。


「一つ面白い思考実験をしよう。100年間まったく動かぬ人形が箱の中にあったとする。動かぬだけではない、錆びず朽ちず、埃や塵もつかぬ変化のない人形があるとする。ヤーナの考えでは、変化こそが時間であった。この人形の時間は止まっていると考えてよいな?」


「はい。現実にはあり得ませんが、仮定の話しであれば、時間の経過は認識できません」


 ふむ、とベルナルディーナは腕組をした。ちょっと得意げなしたり顔だ。


「101年目のある日、一人の人間がこの人形を動かしてしまった。さてここで問題だ。この人形は100年前の物か、それとも1年前の物か、どちらだ?」


 ヤーナもキュアも押し黙ってしまった。論理的に考えれば答えは明快だ。でもその答えは何かがおかしいと、直観的に答えることを拒否してしまっている。


「論理的に考えれば、1年前の物です。でもその人形には、確実に101年が刻まれています。時計のような変化を計る道具があれば証明できます」


 答えを聞いて、ベルナルディーナはニヤニヤと笑っている。見事に術中に嵌まったな、という顔だ。これは面白い展開になりそうだと、その態度はさらに得意げになっている。


「では、人形と時計が刻んだ時間が同じである、という根拠はどこにある? そして変化がなければ時間は止まっているといったのは、ヤーナ、おまえだぞ。この矛盾をどう解決するのだ」


 キュアもヤーナもテーブルを見つめたまま、また押し黙ってしまった。回答できない。証明する方法も反論も思いつかない。作業者の老婆も雰囲気につられ、動きが固まっている。問答が始まってから身じろぎ一つしていない。


「うむ。反論できなくて当たり前だ。時間とは未だ解明されてないものだ。たとえば、1、2、3…と続く数字を読み上げる。すると1は3より過去のもので、2は1より未来のものだと認識できる。これは時間を過去・未来・現在と分け、1本の線で捉えているからだ。だから先の人形のような議論になるのだ。だが実際は違う。時間は1本の線に沿って進む単純なものではない。分かり難いかもしれぬが、イメージとしては泡が放射状に拡散し、ごちゃまぜになるような感じだな。一本の線のような簡単なものではないのだ」


「パラレルワールド。多次元の宇宙。タイムリープ…」


 ぼそりとヤーナが机を見つめながら言った。だが目の焦点が合っていない。簡単な思考実験から、信じられない結論が出たからだ。


「ま、そういうモノも時間の複雑さの一端だ。だが、それですべてではないらしい。”始まり”を語ることすらできぬほど、我々は低レベルなのだ」


 堪らずキュアが口を挟む。


「つまり…どういう事ですか?」


「創造主様も真理を掴みきれてないってことよ」


 ヤーナがずばり斬り捨てるように言う。


「ヤーナ。我はお前のような者と話がしたくて、世界を創ったのかもしれぬ。だが、時間の真理はまだ掴めそうにないな。…そして本題である記憶の話がまだだったな」


 ベルナルディーナがキュアの方を向き、目線を送る。

 いよいよ魂の謎が解けるのかと思うと、興奮が顔に出てしまう。自分でも全身が熱くなっているのがわかった。


「記憶こそが人格であり魂。間違いではない。ある一定の情報量を集めて組織化すると、自我が生まれる。自我とは自ら判断して能動的に動く物のことだ。そこまでは設計図にも記載してある。この世界を創った理由は、生命に自我を持たせ、生命同士を相互作用させ、経験を積ませるためだ。つまり感情と記憶の収集が目的だ」


 さらりと重大な事実が語られた。キュアの思考と感情が、興奮から一気に冷静なものへと切り換わった。ヤーナも一言一句、聞き逃すまいと集中力を高めていた。


「記憶と感情を集める? どういうことですか?」


「我も真理の探究者ということだ。お主たちと同じ研究の学徒。ただし、スケールもレベルもまるで違うがな。お前たちが辿り着いた我、ベルナルディーナは、入れ子の上側と言ってもいいだろうな」


 母娘そろって意図を汲み取ろうと、ベルナルディーナの目を見つめた。彼が何を言っているのかわからない。いや、正確にはわかることを拒否したい。そう感じていた。


「ハッキリ言ってやろう。設計図もすべて我の”実験道具”にすぎぬということだ。お主たちが地上で機械を作り、労働させているようなものだ。我も生命を創って記憶を集め、世の真理を探究しているということだ。世界自体が我の実験場、すなわち『箱庭(ハコニワ)』」ということだ」


 ベルナルディーナが悠然と足を組み替えながら、珈琲をすすった。

 キュアは珈琲が嫌いではなかったが、この香りがやけに鼻についた。感情が一気に吹き飛んでしまいそうだった。ヤーナはそれでも冷静だった。額から滴り落ちる冷や汗を拭いながら、さらに問いを続けた。


「世界も生命もすべてあなたの実験場。多様性を持たせた設計図によって生み出された生命が経験したもの、つまり”記憶と感情”を集めることで、真理を知るヒントを探っているのね?」


「勘がいいな。さすがは”特異点”だ」


「誤魔化さないでください!」


 ヤーナがテーブルをダン!と叩いて立ち上がった。

 創造主に向かって喧嘩口調だ。なんとも大胆である。たとえていうなら、水槽で飼っている金魚が餌をくれる人間に向かって、噛みつくようなものだ。


「だから設計図と記憶を分離するんですね? 設計図は再利用し、記憶はあなたが蓄えて研究材料にする。それが生命が死んだら記憶が残らない理由。だから同じ記憶を持った人間は絶対に現れない。転生体も発生しない」


「その通りだ。お前は今、この世界のからくりをすべてを知った。我から語ることはもうない」


 この世界はある研究者の実験場。生命はすべて実験動物。記憶や感情は生み出された実験データ。その研究者は、収集した記憶と感情を冷徹に解析する。これがヤーナとキュアが知った世界の正体だった。自然の真理などとは遠くかけ離れた、絶望にも似た真実。人間の子供が虫を飼い、その様子を観察する。そんな感覚に近いのだろうか。


 それでもなお、ヤーナは理性を保っていた。


「あなたは世界の”観測者”ということですね?」


「そうだ」


「では記憶と感情はどこにあるのですか?」


「設計図から分離されたデータは、自動的にここへ溜まるようになっている」


 ベルナルディーナは、小箱を懐から取り出した。掌に乗る程度の立方体。金属のようでもあり、木のようでもある。鈍い光沢を放っている。小箱にこれまで収集した無数の記憶と感情が蓄積されている。これを解析することで、真理のヒントを探るのだという。


「そう…ではお願い。解析し終わった者たちの記憶を返してくれないかしら? そうすれば転生体となって永遠に生きられる。死んでしまった者たちとも再会できる。永遠を手に入れ、時間をかければ世界の真理も理解できるかもしれない。良い提案だと思わない?」


 声が低い。穏やかさ溢れるヤーナの目付きが普段とは違う。今は格段に鋭い。


「それは実験済みだ。極めて知能の高い不老不死の人間を数名創ったことがある。それこそ、細切れになっても、灰になっても記憶を保ったまま生き返るヤツをな。そいつらを10万年ほど生存させてみた。だが大した収穫はなかった。最終的にはどの人間も仕事をしなくなった。だから我は、生物の進化と多様性に賭けてみたのだ。そのための設計図の創造と記憶の収集なのだ」


「じゃあ、記憶は返してくれないのね?」


「同じ人間が永遠に生き続けても、ろくなことにならぬ。多様性が失われ、子孫を創らなくなる。最終的には同じような思考の人間が残る。進歩も進化も停滞する。お前たちが地上で使役している”知恵持つ機械”のようなものだ。真理にはたどり着けぬ。だから生物は必ず死に、記憶を失うよう創ってあるのだ。これが世界に課した『ベルナルディーナの不文律』だ。我が決めた絶対の物理法則であり掟だ。実験条件といった方が、お前たち研究者母娘にはなじみ深いか。条件があやふやになれば、実験そのものが意味を失う」


「ひとつ聞いてもいいかしら。その小箱に入った記憶と感情、つまり人格であり魂というべきモノだけれど、中はどういう状況なのかしら?」


「お前は収集した実験データの事など考えたことがあるのか? まぁ…推測でしかないが、狭い独房に閉じ込められ、氷漬けにされているようなものだろうな。お主たちの言葉で言えば、監獄だな」


「生命は等しく死ぬ。死んだら肉体は地上で朽ち果て、魂の方は監獄で氷漬け。永遠に苦しむってことでいいかしら?」


「実験動物の倫理なぞ、創造主である我次第だ。お主たち実験データの採取道具が文句を言うところではないな」


 ガタン。キュアが膝から床に崩れ落ちた。

 衝撃的な事実にショックが大きすぎた。キュアだけではないだろう。これを聞いた者は、どんな人間であろうと、絶望して正気を失うに違いない。

 

 知りたい望んだ記憶の行き先。設計図がある以上、消滅する訳はなく、きっと輪廻転生を繰り返していると思っていた。生命の先には死んでも希望があると思っていた。だからこそ、人間は幸せに暮らしていく努力をするものだと信じていた。だが真実は残酷だった。人間は、神様の興味のためだけに飼われている虫だった。神はそれを単なる実験道具と言い切った。救うでもなく、試すでもなく、進化を見つめ、得られるデータを解析するための、ただの道具であると言い放った。

 

 今の時代、科学は万能だ。だが神様はどこかにいて、生命を慈しんでくれている。だから皆努力してより良い生活をし、より良い人生をまっとうしようとするのだ。だが根底から覆された。自分たちが産まれて来た目的。そしてすべての生命が地獄行きになると知った時の絶望感。強気で利発なキュアでさえ、筆舌に尽くしがたいショックを受けていた。


「ああ、ちなみにな…解析して不要になったデータは消すことにしている。ま、お前たちの言う魂の消滅というやつだな」


 ベルナルディーナは淡々と言い放った。そこには何の感情もこもっていない。慈悲や優しさはない。あるのは、冷徹な科学者の目だけだ。


「じゃあ、最後のお願い。その”記憶の小箱”の中を少しだけ見せてもらってもいいかしら?」


 声のトーンが変わった。キュアはこの声を発するヤーナを知っている。滅多にないが、激怒する直前の声だ。

 

 幼い頃、友達にタチの悪い悪戯をしたことがある。幼少期から運動神経抜群だったキュアは、わざと走るのが苦手な友人を競争に誘った。急峻な階段を駆け下りる単純なものだった。結果は始まる前から見えていた。だが子供は残酷だ。ただ優越感に浸りたい。そのために運動が苦手な友人を馬鹿にした。こうして挑発し”階段駆け下り競争”が始まった。当然キュアの勝利。友人は、スタート後、数歩で足を縺れさせ、派手に転げ落ちだ。幸い骨折程度で済んだが、下手をすれば命にかかわっていた。その時の母ヤーナの怒りの声と形相は、今でもよく覚えている。普段優しいだけに、そのギャップの激しさに恐怖した記憶は、成人した今でもトラウマになっている。


「構わんぞ。ホレっ」


 ベルナルディーナは躊躇なく応え、ゴムボールを扱うような気軽さで、ヤーナの方へ投げてよこした。

 ヤーナがキャッチする。意外にも軽いことに驚いた。金属のような重さを予想していたので慎重に獲ったつもりだが、拍子抜けしてしまった。木製の箱よりも軽い。表面は少しざらざらしており、手へのひっかかりの具合がちょうどよい感じだ。蓋には留め金があり、それをずらせば蓋は開くようだ。


「開いてもよいが覚悟しておけ。意思の弱い者は直ぐに飲みこまれるからな」


 キュアとヤーナが慎重に留め金をずらす。ゆっくりと蓋を開く。緊張感が高まり、鼓動が否応なしに高まる。この中にすべての生命の魂が入っているのだ。何が見えてしまうのか。この時ばかりは、好奇心より恐怖の方が上回っていたと、母娘は告白せざるを得なかった。


 箱の中は黒いガラスのような塊があった。黒曜石のよう見える。じっと観察してみると、そこには人間の頭蓋骨のようなものが無数に蠢いていた。骸骨なので表情はないのだが、もがき苦しむその姿は、地獄の業火に焼かれて苦しみ逃げ惑う人間のようだった。耳を澄ますと声も聞こえた。呻きとも唸りとも違う、悲壮感に満ち満ちた音。怒りや嫉妬、怨嗟や恐怖などあらゆる負の感情が渦を巻ているようだった。さながら、小窓から地獄の底を覗いてしまったようだ。

 

 2人とも一気に気分が悪くなり、キュアは目をそらして床に吐いてしまった。強烈な負の感情と記憶に当てられたからだろう。ヤーナの顔も真っ青になっていた。しかし彼女はそれでも冷静だった。ゆっくりと小箱の蓋を閉じ、留め金をかける。

 

 吐いて苦しむ娘を「ほら見ろ」とばかりに見下しながら笑うベルナルディーナ。彼の注意は完全に床上のキュアに向いていた。


その刹那、ヤーナはキュアの手を取り発した。


「瞬移!」


 母娘は自宅の庭に居た。なんと、地下空間のベルナルディーナから記憶の小箱を奪って地上まで瞬間移動してきたのだ。瞬間移動の呪文は、一度行った場所か強くイメージの残っている場所であれば、移動可能である。今、ヤナの手には数万年に渡るであろう生命の記憶と感情が封じ込められた箱がある。世界の創造主から一番大切なものを奪ってきたのだ。


「か、かあさん…そんな、ゴッホ、ゴッホ…」


 キュアはショックからまだ立ち直っていない。ヤーナも、自分でもなぜこうしたのか正直理解できなかった。ただ、人々の魂、つまり記憶を食い物にしているベルナルディーナが許せなかった。それが咄嗟の行動に出てしまったのかもしれない。


 まだ気が動転しているキュアに水を飲ませ、心を落ち着かせた。ここが自宅の庭だということがわかると、キュアもようやく理性を取り戻すことができた。


「母さん、あいつが追って来るわ! 早く逃げましょう!」


「彼は追って来ない。いえ、追って来れない。別の手段でこの箱を取り戻すことすらできないのよ」


 キュアにはさっぱりわからなかった。普通に考えれば、キュアの反応は正しい。長年かけて集めた実験データを持ち逃げされたのだ。怒りに震えて追撃してくるに違いない。あるいは、手下を大勢差し向けてくるかもしれない。


「…彼は自身を”観測者”と言ったわ。実験において、観測者は絶対に実験に影響を与えてはならない。観測者が実験結果に影響を与えたら、実験の正確さが失われるのよ。これも彼自身が定めた不文律。そして私たちの不文律でもあるわ。つまり研究者の常識よね」


 段々と理解が追いついて来たとばかりに、キュアの顔が明るくなっていく。


「彼がこの小箱を取り戻すこと自体、既にタブーなのよ。彼が取り戻しに地上に現れた時点で、実験場であるこの世界にその影響が出てしまうから。実験結果に彼の恣意的な操作が入り込んでしまう。客観性のない実験になってしまうの。そうなると彼が創って来た膨大なこの世界もまた一から作り直さなければならない。ハコニワを作り直して、膨大な数の設計図を全部新規に作り直すなんて、何万年かかるのかしら。そんなの研究者なら選ばないわよね。実験効率も大切ですもの。ふふふ」


 ヤーナが勝ち誇ったように笑った。まさに”してやったり”、である。

 キュアは思った。こういう大胆な気転は絶対にできない。しかもあの一瞬でそこまで判断したのかと思うと、自分の母親が神以上に誇らしい存在に見えて来た。キュアも一緒になって笑った。庭の芝生に大の字になって寝転がって笑った。


 こうして、人類は過去数万年分の魂を取り戻したのである。

だが、真の問題はここからであった。


 この封じられた魂を、どう扱えばよいのかわからないのである。当然、ベルナルディーナが教えてくれる訳はない。小箱を開けてガラスを外に出せば、自然に肉体も再生し、魂も宿って生前の姿になるとはとても思えない。箱の中の者たちは、設計図を失っているのだ。しかも、今の自分たちは設計図を創ることができない。これは大問題であった。


 母娘はまた議論する毎日に入った。他の誰にも話せないことは、こういう時一番辛い。設計図の書き換えのことはもちろん、魂や記憶についても、母としか話すことができないのだ。もっと多くの人の意見を聞ければ、違った展開を見せるかもしれない。より良い答えが出るかもしれない。


 10日間ぶっ続けで議論して出た結論は一つだけ。

「自分たちは神の実験道具」という事実は、誰にも伝える必要がない。これだけだった。伝えてもハコニワやベルナルディーナを見た者でないと理解できないだろうし、知ったとしても不安を煽るだけで人間社会にはメリットがない。この点は共感も理解もできた。

 だがせめてこの箱の謎さえ解ければ…。魂を肉体に還元する方法さえ見つかれば…。キュアは毎日頭をガンガン叩きながら、机に向かって考え抜いた。


 一方ヤーナは、柄にもなく毎日教会へ出かけていた。この時代、神など心を落ち着かせるための単なるシンボルに過ぎなかった。一応「救済の神」と呼ばれる慈愛を象徴する神様が巷では信仰されていた。とは言っても真面目に信仰する者はほとんどおらず、年末年始のおみくじを引く感覚で稀に遊びに来る者が居るだけだった。真剣に祈るのは、教会を取り仕切っている司祭くらいのものだ。


「私は頭を使って科学的に考えようと頑張っている。なのに母さんは神頼み? いい気なものね」


 キュアはストレスからか、母に反抗するようになっていった。

だがこの些細なすれ違いが、栄華を極めていた神代を終わるきっかけを作ったと言ってもいい。

 

 どこにでもある母娘のすれ違いが、世界を巻き込む展開に発展してしまうのだ。

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