第五話 酒場の赤毛と謎のモヤモヤ
「俺の行きつけに行こう。落ち着いて食べられる」
「行きつけの店があるの。意外だね」
「どういう意味だ」
「いや、君は食事より鍛錬を優先すると思っていた」
「食わなければ鍛錬もできない。というか俺の何を知っているんだ」
もっともな話だった。
夕暮れの通りを抜け、ワンダが案内したのは、木の看板を掲げた酒場だった。窓から漏れる灯りの中に、人影がいくつも揺れている。扉を開けた瞬間、焼いた肉と煮込み料理の芳しい香りが鼻先をくすぐった。
――ぐう。
僕のお腹が、店の賑わいに負けないくらいはっきり鳴った。僕は隣のワンダをうかがう。聞かれていないだろうか。いや、聞かれたくない。どうしてだろう。別に空腹なのは恥ずかしいことじゃないのに。
「今、何か言ったか?」
「店の床が鳴ったんじゃないかな」
「床は鳴いていない」
「そうかい」
幸い、酒場の喧騒が続きをかき消してくれた。
店内では、客たちの笑い声と食器の音が飛び交っていた。夕暮れ時で、仕事を終えた人々が集まり始めたところらしい。ウェイトレスたちは忙しそうにテーブルを回り、料理や酒を運んでいる。
その中で、ひときわ目を引く少女がいた。赤毛のミディアムショートがよく似合う、愛らしい顔立ち。ウェイトレスの中では一番若く見えた。
可愛い。
転生しても、可愛い女性に目がいく癖は変わらないらしい。僕は少女の動きを、つい目で追っていた。そのとき、彼女がこちらを振り返った。目が合う。彼女は小走りに近づいてきた。
やはり、僕の魅力に気づいたのだろうか。僕は自然と笑顔を作った。どうやらこの姿になっても、女性にモテてモテて仕方ないらしい。まったく、困ったものだね。
「ワンダさん! 久しぶり。今日はずいぶん遅かったね」
少女は僕の横を通り過ぎ、ワンダのほうへ顔を向けた。僕の笑顔が、わずかに固まる。
「ニア、忙しそうだな」
「見て分かるなら、手伝ってくれてもいいんだよ?」
「客として来た」
「いつもそう言うよね」
ニアは親しげに笑い、ワンダの袖を軽くつまんだ。
「今日はちゃんと食べてくんでしょ? また食事を抜いて仕事に行ったりしてない?」
「ああ。今日は食べる」
「ならよかった」
二人の会話は自然で、互いに気を許しているのが伝わってくる。
なぜだろう。胸の奥が、少しだけむっとした。
何に対して? ワンダが僕ではなくニアと親しく話していることに? それとも、僕に気づいて駆け寄ったのではなかったことに?
自分でもよく分からない。ぼんやりした、名づけにくい感情だった。ワンダが僕を見た。
「ああ、紹介する。友人の妹だ」
なんだ、こいつ、嘘をついたな。僕は少しむっとした。
もちろん、僕自身も嘘をついている。記憶喪失だと誤魔化した。そもそも僕とワンダの今の関係を、説明するのは難しい。分かっている。分かっているのに、彼が僕を「友人の妹」と呼んだことが、なぜか引っかかった。
「はじめまして。ニアです」
ニアは可愛らしく微笑み、僕へ手を差し出した。
「はじめまして。僕は、レイ――」
危ない。
「レ、レイリーンだよ」
「レイリーンさんね。よろしく」
ニアは気にした様子もなく、僕の手を軽く握った。柔らかい、温かい。自然と口元が緩んだ。その横で、ワンダの眉がぴくりと動いた。何かに気づいたのかもしれない。けれど彼は、何も言わなかった。
「二人とも、席へ案内するね。いつものテーブルが空いてるから」
ニアはまたワンダの袖に触れ、店の奥を指さした。その何気ない仕草が、どうしてこんなに気になるのだろう。
というか、なんだ、この子は。
可愛いのは認める。愛想もよく、笑顔も魅力的だ。僕のハーレムに加える候補としては、申し分ない。そう考えているのに、彼女がワンダへ親しげに触れると、胸の中に小さな棘が刺さったような気分になる。
「レイリーンさん、こちらです」
ニアが振り返って、僕にも笑いかけた。その笑顔を見た途端、棘の感覚は少し薄れた。
「ありがとう」
「ワンダさん、今日は何にする? いつもの煮込み?」
「そうだな」
「じゃあ、パンも多めにしておくね」
「助かる」
……いつもの煮込み。パンも多め。
僕の知らないワンダの習慣を、ニアは知っている。それは当たり前だ。彼はこの店の常連で、ニアとは顔なじみなのだろう。分かっている。何もおかしなことはない。なのに、どうして僕は、二人の間にある時間を気にしているのだろう。
テーブルに着くと、ニアは注文を取りに戻っていった。
「ニアとは長い付き合いなのかい?」
尋ねると、ワンダは水の入った杯を手に取った。
「この町に来ると、よくここで食べる。それだけだ」
「へえ……それだけで、いつもの注文まで覚えられてるんだ」
「何度も頼めば、嫌でも覚えるだろう」
「ふうん……」
自分でも、どうしてそんなことを聞いたのか分からなかった。
ニアが料理を運んでくる。湯気の立つ煮込みと、焼きたてのパン。香りを嗅いだ途端、僕のお腹がまた小さく鳴った。今度は、ワンダにも聞こえたらしい。
「腹が減っているんだな」
「椅子だよ」
「今度は何が鳴くかな。テーブルか?」
「この店の家具は、よく鳴くね」
僕とワンダのやり取りを見て、ニアがくすっと笑った。
「レイリーンさん、遠慮しないで食べてください。ここの煮込み、おいしいですよ」
「ありがとう。いただくよ」
彼女はワンダにも「熱いから気をつけて」と声をかけ、彼の杯を少し奥へ寄せた。なんだよ、お前ら、なんか近いな。いや、店員としての気遣いだ。そうに決まっている。
僕はパンをちぎりながら、自分の考えを整理しようとした。
ニアは可愛い。ハーレムに加えてもいい。ワンダと親しそうなのは、ただの顔なじみだから気になるだけ。僕は彼女のことをもっと知りたい。それは候補者の人柄を確かめるためだ。
そうだ。すべては新たなハーレム計画のため。……なのに、ワンダがニアに笑い返すたび、胸の奥がまた、ほんの少しだけざわついた。




