第六話 二部屋ではなく、一部屋
酒場を出ると、夜風が頬を撫でた。店の奥からは、新しい客を迎えるニアの明るい声が聞こえている。本格的に騒がしくなる前に食事を終えられたのはよかった。煮込みもパンもおいしかった。
ただ、味を十分に楽しめたかというと、少々怪しい。ニアは食事の間も、何度かこちらを見ていた。いや、正確にはワンダを見ていた。
料理を運ぶ合間、ほかの客に呼ばれて振り返る直前。目が合えば微笑み、ワンダが気づかなければ、その横顔を少しだけ眺めてから仕事へ戻る。
あの視線は、完全にあれだ。そう、あれというやつだ。俗にいう、気があるというやつである。
「……まったく」
「どうした?」
「何でもないよ」
隣を歩くワンダは、何も気にしていないようだった。
なんなんだ、こいつは。どうしてワンダが女性にモテている。ワンダのくせに。別に彼が女性から好かれてはいけないわけじゃない。そんなことは分かっている。幼馴染として、喜んでやるべきことだろう。それはそれとして、むかむかする。ハーレム計画を成功させるのは、僕だというのに。
「ニアは、ずいぶん君を気にかけていたね」
「そうか?」
「食事を抜いていないかとか、熱いから気をつけろとか。ずいぶん親切じゃないか」
「店員だからな」
「店員なら、誰にでもあんなふうにすると思うのかい?」
「ほかの客にも親切だろう」
「……君って、本当にそういうところがあるよね」
「どういうところだ」
「別に」
ワンダが首をかしげる。僕は顔をそらした。
こちらは食事どころではなかったというのに、本人はのんびり歩いている。いや、歩いているだけで腹を立てるのは理不尽かもしれない。しかし、今は歩き方まで気に障った。
「ニアのことで、何か気になることがあるのか?」
「あるわけないだろう。彼女は可愛いし、感じのいい子だったね。それだけだよ」
「なら、どうして怒っている?」
「怒っていない」
「そうか」
その短い返事が、また少し腹立たしかった。ワンダは通りの先へ目を向けた。
「あの宿でいいか」
彼の視線を追う。
通りに面した、石造りの大きな宿だった。玄関先の灯りは明るく、窓にはきれいな布のカーテンが掛かっている。扉の横には手入れされた鉢植え。荷馬車を置く場所にも屋根がある。
それなりに高級な宿だ。泊まるだけなら、もっと安い場所もあるだろうに。やはりワンダは、金に無頓着すぎる。服を買って、食事をおごって、今度は宿まで上等な場所を選ぶつもりか。いたいけな少女を相手に、紳士ぶっているつもりなのか、こいつ。
「おい、聞いているのか。レイン」
「もちろん聞いているよ、ワンダ――」
足が止まった。今、何と呼ばれた?
ワンダは宿の看板を眺めたまま、何でもないことのように言い直した。
「失礼。レイリーン」
僕は彼の顔を見上げた。表情は変わらない。……こいつ、まさか。
「……今、名前を間違えなかったかい?」
「ああ、間違えた。悪い」
「ねえ、誰と?」
ワンダがこちらを見る。
「何を聞きたいんだ?」
「いや、別に。気になっただけだよ」
「そうか」
また、それだけだった。
レインとレイリーン。確かに似ている。少し短く呼んでしまっただけかもしれない。そうだ。言い間違いだろう。しかし、あまりにも自然に呼ばれたせいで、僕も普通に返事をしてしまった。まずかっただろうか。
いや、呼びかけられれば返事くらいする。相手が僕を見ていたなら、名前が多少違っても反応する。それは何もおかしなことじゃない。僕が頭の中で言い訳を並べていると、ワンダは宿の扉へ手をかけた。
「返事がないなら、ここで決定だ。面倒くさいからな」
「ちょっと、まだ何も言っていないだろう」
「だから聞いたんだが」
「君は、もう少し相手の返事を待つべきだと思うよ」
「十分待った」
僕は言い返せず、彼のあとを追った。
宿の中は暖かかった。磨かれた床に、落ち着いた色の敷物。壁には風景画が掛かり、受付の奥には小さな花瓶が置かれている。酒場のような賑わいはない。話し声まで、どこか上品に聞こえた。受付にいた主人が、顔を上げる。
「いらっしゃいませ。お泊まりですか?」
「ああ。空いている部屋はあるか」
「ございます。朝食付きですと、こちらのお値段になります」
差し出された料金表を見て、僕は内心で眉をひそめた。やはり高い。普通の冒険者が、気軽に何泊もできるような金額ではない。
「ワンダ、ほかにも宿はあるだろう?」
「ここなら戸締まりもしっかりしている。休むにはいい」
「休むだけなら、寝台があれば十分じゃないか」
「君は今日、二度も男に絡まれた」
「それと宿の値段に、何の関係が?」
「安全なところで寝かせたいと言っている」
返す言葉が、喉の奥で止まった。まただ。そんなことを、当たり前のように言う。僕は小さく咳払いをした。
「……なるほど。そういう判断か」
「ほかに何がある?」
「何もないよ」
今日の僕は、助けられてばかりだ。山賊から救われ、外套を借り、足当てを用意してもらい、服代と食事代まで出してもらった。さらに宿まで決められている。
まるで、ワンダにしてやられ続けているようじゃないか。本人にそのつもりがないのは分かっている。それでも、なんだか面白くない。何か一つくらい、こいつを困らせてやれないものか。
僕は受付の横に置かれた鏡へ、ふと目を向けた。灰色の髪に、色白の肌。大きな外套から顔をのぞかせた、実に可愛らしい少女が映っている。そうだ。この姿があるじゃないか。
僕は鏡の中の少女に、そっと微笑ませた。いい。申し分ない。これほどの美少女を前にすれば、いくらワンダでも平静ではいられないはずだ。少し甘えた声を出し、近くに座り、愛らしく見上げてやる。そして彼が照れたり、浮かれたりしたところで、正体を明かすのだ。君が鼻の下を伸ばしていた美少女、その中身は僕だよ、幼馴染のレインだよ、と。
あの強面が、どんな顔になるだろう。幼い頃からの腐れ縁を相手に、まんまと照れさせられていたと知ったら。僕は口元を押さえた。
「……ふふ」
「どうした?」
「何でもないよ。いい宿だと思ってね」
「さっきと意見が違うな」
「人は成長するものだから」
「受付に立っている間にか?」
「きっかけは、どこにでもある」
ワンダは怪訝そうに僕を見たが、すぐに主人へ向き直った。いいぞ。そのまま油断していたまえ。美少女ハーレム計画の前に、まずはこのお馬鹿な幼馴染を罠にはめてやろうじゃないか。
「では、二部屋頼み――」
「一部屋、お願いします」
ワンダが口を閉じた。主人も、僕を見る。
「……お一部屋ですか?」
「そう、一部屋で」
「いや、二部――」
「一部屋!」
ワンダがゆっくりこちらへ顔を向けた。
「おい、何を言っている?」
「一部屋で十分だと言っているんだよ」
「十分じゃない。君の部屋と、俺の部屋だ」
「無駄遣いはよくない」
「俺の金だ。気にする必要はない」
「気にするとも。僕は堅実だからね」
「それは結構だが、二人で同じ部屋に泊まる理由には――」
「一部屋でお願いしますっ!」
主人の視線が、僕とワンダの間を往復する。
「その……どちらでお取りしましょうか」
「二部屋だ」
「一部屋で。立派なベッドのある部屋」
「俺の話を聞け」
「聞いているよ。だから、節約を提案しているんじゃないか」
僕は受付の主人へ、にっこりと笑いかける。
覚悟したまえ、ワンダ。君を、思いきり恥ずかしがらせてやろうじゃないか。そのときの僕は、すでに勝利を確信していた。




