第7話
パンは銀貨一枚で買える、孤児は銅貨三十一枚で買える
ある奴隷商人の手記より
横面を力いっぱい叩いてやると、とてもいい音がして、でも男はいやらしい顔のままだった。
ひどく不愉快でたまらない、睨みつけると冷笑された。欲深くて、ひととして堕落しきった表情だと、立ち振る舞いも声色もすべてが癇に障る。
「帰ってくださいっ!あなたに差し出すものなんか、ここにはなんにもありませんっ!!」
自分の金切り声が滑稽で嫌いだ。こんな風に、誰かを、望んで怒鳴りたかったことなんかない、なのに、目の前の男はそんなことお構いなしだ。
「いってぇなぁ……、言われなくても、金以外にここに用事なんざねーよ、来るたび来るたびキーキー威嚇しやがってテメェはよぉ……小鬼か?ハハッ……」
ソフィヤはその言葉に顔を真っ赤にした。ふるふると全身をわななかせ、はくはくと口が何も言えずに開いたり閉じたりする。
「……さいていっ」
それだけ、ようやく吐き捨てると、まだまだ幼さすら残す顔をめちゃくちゃに歪めて、叫んだ。
「でてってよっ!!ここからっ!!あなたなんか……っ」
そんなソフィヤを宥めるように、やわらかい手が肩に置かれる。
「ソフィヤ、そんなに怒っては倒れてしまうわよ、……ヴィクトル、いらっしゃい、またお金が必要なの?」
男はその静かな声の主に目をやると、無感情的に、すぐに視線を逸らした。
「くたばってなかったか、ババア」
「リタ様になんてこと言うのよっ!!」
吠えるソフィヤを他所に、……どこか気まずそうに男は立ち去ろうとする。
「……ごめんなさい、さいきんすっかり耳が遠くて、……聞こえなかったわ」
リタは困ったようにほほえみ誤魔化すと、男に向かって静かに告げた。
「また、いつでも帰っておいで、ヴィクトル……ここはあなたのお家でもありますからね」
ソフィヤは男がいなくなると、へたりとしゃがみこんで……自然、涙が溢れ出てきた。彼女は己の感情と上手く折り合いがつけられず、すぐに癇癪を起こすようなところがあるのだ。
リタがそっと目元をぬぐってやると、ひっくひっくしゃくりあげながらソフィヤはリタに抱きついた。力いっぱいにすると、もうほとんど枯れ木みたいになった身体は、折れてしまうどころかこのまま灰になってしまいそうだと思った。
「……あのひとは恩知らずですっ、……リタさまに、……さんざんお世話になっておいて、……どうしてあんな真似ができるんですかっ……」
何度も繰り返した問いを、また、してしまう。その度に答えは決まっているのだ。
「あの子にはあの子の事情があるのですよ、ソフィヤ、ゆるしてあげましょう」
このときばかり、ソフィヤはリタのことすら憎たらしくなる。理不尽だ、何もかもがと、ソフィヤは必死で歯を食いしばった。
「あらあら……おやめなさい、歯が痛むわ、ほら、歯を大事にしないとものが噛めなくなりますよ、わたしみたいにね」
リタはくすくすと笑い、どこかゆったりしていて、とんちんかんなことを言う。
ソフィヤはそんなリタが好きだった、この場所のことも、だからどうにかして守りたいのに、何もできない己が歯がゆかった。
「今日はすこしにぎやかね」
リタに差し伸べられた手を取って立ち上がる。
「……買い物に行ったときに噂をききました、……トビアスってひと、なんか正体のわからないおじさんに負けたとかって、……くだらない」
ひとがひとり、喧嘩でのされたくらいでここまで騒げるなんて脳天気なものだと、ソフィヤは苛立っていた。
他所から来た青年はこのあたりではよくよく知られた有名人で、顔がいいとか、紳士的だとか、彼に黄色い悲鳴をあげる者を見たことは何度もあったが、ソフィヤはそれをわりかし冷めた目で見ている側だった。
「……神様に愛されてるからってなによ、べつに……わたしたちを、助けてくれるわけでもないのに」
漏らした呟きを、リタはまた、ほほえんで流した。
彼女の耳が聞こえないのは本当なのか、ソフィヤには最近、判断がつかなくなっていた。




