キャンバスの空白を埋めるもの
暗闇のホームで、先輩が私の冷たい手を包み込む。差し出されたのは、私が部室に置いていった、古びた勿忘草色のパステル。「お前のいないキャンバスは、ただの空白だった」無彩色だった私の毎日に、先輩の言葉が、もう一度鮮烈な青を突きつけてくる。
夜風が、駅のホームを通り抜けていく。電光掲示板の明かりが完全に消え、あたりは自販機の青い光と、遠くの街灯のオレンジ色だけになった。世界から色が消え、二人の輪郭だけが鮮明に浮かび上がっている。
「俺は、この夏休みに実家に帰ってきたんじゃない」
蓮は葵の濡れた手を、そっと自分の両手で包み込んだ。彼の掌は、油絵の具の溶剤の匂いはもうしなかったけれど、あの頃と変わらない、圧倒的な熱を持っていた。
「お前に会いに来たんだ。もう一度、あの美術室で、お前の描く『小さな花』の絵が見たくて。お前が筆を折ったままだって聞いて、俺のせいで一人の画家の未来を奪ってしまったんじゃないかって、ずっと胸が苦しかった」
「私の未来なんて……」
「奪ってない。まだ始まってもいないだろ」
蓮は強く、しかし優しく葵の指先に力を込めた。
「やり直そう、なんて綺麗な言葉で済ませるつもりはない。お前のこの二日間の、いや二年間の苦しみも、受験のプレッシャーも、俺には肩代わりできない。でも、もし、お前の心の中に、まだほんの少しでも『絵を描きたい』っていう火種が残っているなら……」
蓮はポケットから、小さな、古びたパステル(絵の具の一種)を取り出した。それは二年前、葵が美術部を辞めるときに部室に置いていった、彼女のお気に入りの「勿忘草色」のパステルだった。
「これ、ずっと持ってたんだ。お前のキャンバスの空白を埋められるのは、俺の火薬じゃない。お前自身の指先だけだ」
葵は、蓮の掌にある小さな青いパステルを見つめた。胸の奥の、ずっと深い場所で、氷が溶けるような音がした。傷つかないように、誰の記憶にも残らないように、無彩色に塗りつぶしてきた彼女の毎日に、鮮烈な「青」が飛び込んできた。葵はゆっくりと、もう片方の手で、ずっと握りしめていた折りたたみ傘の留め具を見た。今度は迷わなかった。きゅっと布地を巻き、パチン、と小気味いい音を立ててボタンを留めた。傘は完全に閉じられ、彼女の指先は自由になった。
「……バカね、先輩」
葵は涙を拭い、二年間で初めて、心の底からクシャリと笑った。
「そんなもの、二年間も持ち歩いてるなんて、本当に不器用」
「うるさいな。これでも必死だったんだよ」
蓮もまた、あの頃と同じ、少し困ったような、しかし世界で一番愛おしそうな笑顔を浮かべたのだった。




