放課後のアトリエ、油絵の具の嘘
かつて二人が過ごした放課後の美術室は、常に西日と油絵の具の匂いに満ちていた。圧倒的な才能を持つ三年生の先輩・織田蓮と、ただ絵が好きだった一年生の葵。先輩が葵の笑顔を鮮烈な炎として描き上げた傑作『一握りの火薬』は、二人の距離を急速に近づけると同時に、葵の心に「凡人としての絶望」という名の深い影を落としていく。
二年前の美術室は、常に夕日と油絵の具の匂いで満たされていた。高校一年生だった葵は、ただ「絵を描くのが好きだから」という素朴な理由で美術部のドアを叩いた。そこで出会ったのが、当時三年生だった織田蓮だった。蓮は、部内でも特別な存在だった。顧問の先生すら彼の描く絵には口を出さず、ただ静かに見守るだけ。彼の前では、世界がまるで違う色彩を持って動いているようだった。
「高坂、そこの陰影、もっと青を混ぜた方がいい。黒だけで影を描くと、絵が死んじゃうから」
イーゼルの前に座る葵の後ろから、蓮がふわりと影を落とす。彼の体からは、いつも微かにタバコではない、木炭やテレピン油の乾いた匂いがした。彼に声をかけられるたびに、葵の心臓はうるさいほどの音を立てた。先輩のようになりたい、先輩と同じ世界を見てみたい。その純粋な憧れは、いつしか淡い恋心へと変わっていった。夏のコンクールが近づいたある日、蓮は大きなキャンバスに向き合っていた。テーマは『私の大切なもの』。蓮は、他の部員が帰ったあとも、西日の差し込むアトリエで一人、狂ったように筆を動かしていた。彼の瞳は、寝不足で血走っていながらも、世界に対する強烈な飢餓感のようなものでギラギラと輝いていた。
「先輩、何を描いてるんですか?」
葵が恐る恐る覗き込んだとき、言葉を失った。そこに描かれていたのは、ひまわりのように咲き誇る、鮮烈な炎のような「赤」と「黄色」の嵐だった。そしてその中心に、確かに葵自身の、弾けるような笑顔が描かれていたのだ。
「これ……私、ですか?」
「うん」
蓮は筆を置き、照れくさそうに笑った。
「俺にとって、一番美しい光は、高坂が笑ってるときの光だから」
その絵のタイトルは『一握りの火薬』。それは一瞬ではじけて消える爆弾のような、しかし見る者の網膜を焼き尽くすほど圧倒的な熱量を持った傑作だった。案の定、その絵は全国コンクールで最高賞を受賞し、蓮の名は一躍、美術界の神童として知れ渡ることになった。しかし、その輝きが強ければ強いほど、葵の影は濃くなっていった。蓮が大賞を取った同じコンクールで、葵の描いた静物画は、佳作にすら入らなかった。彼女が描いたのは、ただのひび割れた花瓶と、色褪せた小さな花の蕾。蓮の『一握りの火薬』の横に並べられた自分の絵を見たとき、葵は吐き気がするほどの絶望感を覚えた。
(私は、この人の隣にいてはいけないんだ)
蓮の才能は、本物の太陽だった。近付きすぎれば、自分という平凡な存在は一瞬で灰になってしまう。彼は東京の、日本のトップが集まる美大へ進学することが決まっていた。彼は世界へ羽ばたく。だけど、その光に照らされるだけの自分は、一体何者になれるのだろう。ただの「天才の恋人」として、彼の後ろを歩くだけの影になるのではないか。その恐怖と劣等感に、十六歳の葵は耐えられなかった。別れを切り出したのは、葵からだった。二年前の雨の夜、この星ノ宮駅のホームで。「私、もう絵を描くのをやめます。先輩の足手まといになりたくないの」蓮は何も言わなかった。ただ、酷く傷ついた目で葵を見つめ、最後に「もう、無理して笑わなくていいよ」と言って、去っていった。




