25時の雨上がり、ローファーの音
東京の美大での二年間は、息が詰まるほどの白夜だった。おもちゃのような『火薬』を振り回すだけの自分に絶望し、新宿で編集者と泥のように飲んだ帰り道。気づけば終電を逃し、懐かしい雨の匂いに誘われて、俺はあの星ノ宮駅のホームに立っていた。そこに、小さく折りたたみ傘を握りしめたまま、あの日のように立ち尽くす葵の姿を見つけるまでは。
二五時四分。誰もいないプラットホームの頭上で、蛍光灯がジジ……と小さく虫の羽音のようなノイズを立てていた。地方私鉄の終着駅に近い「星ノ宮駅」は、日付が変わる頃にはすっかりその生気を失ってしまう。つい先ほど、東京方面からの接続を終えた最終列車が、錆びついたレールを軋ませながら車庫へと去っていった。その後に残されたのは、ただ重たく、湿った沈黙だけだった。高坂葵は、改札へ続く古い木造の階段の影に立ち尽くしていた。紺色のセーラー服の襟元には、梅雨の終わりを告げる湿った夜風が容赦なく吹き込んでくる。高校三年生。特進クラス。志望校判定はBとCを行ったり来たり。今の葵を構成する記号は、そんな退屈で、乾いたものばかりだった。今日も駅前の塾の自習室に閉館まで残り、頭が痛くなるまで英文解釈の参考書と睨み合っていた。
「はぁ……」
小さく吐き出したため息は、夜の湿気に吸い込まれて消える。
葵の手には、一本の折りたたみ傘が握られていた。駅を出るときにはもう雨は上がっていたというのに、彼女はそれをきゅっと小さく巻き直しただけで、留め具のボタンをパチンと留めることができずにいた。水滴をたっぷりと含んだネイビーのナイロン地が、冷たく重い塊となって、彼女の細い指先にしがみついている。
(いつも、そうだ)
終わってしまったものに、いつまでも綺麗な区切りをつけられない。二年前の、ちょうど今と同じ季節。この場所で、彼女は人生で最も美しく、そして最も鋭利だった時間を失った。失ったというよりは、自ら手を放したのだ。その記憶の痛みが、雨上がりのアスファルトの匂いとともに、肺の奥深くをツンと刺す。そのときだった。カツ。誰もいないはずのホームの端から、乾いた靴底の音が響いた。駅員ではない。駅員の履く安全靴の鈍い音ではなく、それは紛れもなく、履き古されたローファーがコンクリートを叩く、あの独特の、軽やかで少し頼りない響きだった。葵の身体が、硬直する。心臓が、ドクンと嫌な高鳴りを上げた。あり得ない。ここにいるはずがない。彼は二年前、この駅のホームで葵に背を向け、東京の美術大学へと進学していったのだから。これはきっと、受験勉強のストレスが見せる幻聴か、あるいは過去の未練が作り出した質の悪い幻影だ。カツ、カツ、と足音は迷いのない足取りで近づいてくる。自動販売機の薄青い蛍光灯が、ホームの闇を切り取るその境界線に、一人の男の影が滑り込んできた。少し長めに伸びた前髪が、夜風に揺れている。肩幅は広くなったように見えるが、全体の線の細さは、あの頃の記憶のままだった。白地のシャツの袖を無造作に肘まで捲り上げ、片肩に重そうな革製のカメラバッグを下げている。
「……葵?」
自販機の光の中で、男が足を止めた。その声のトーンを、葵の鼓膜は瞬時に識別した。低く、少しだけ鼻にかかった、まるでチェロの低い弦を優しく弾いたときのような、湿り気のある響き。織田蓮。二年前、葵が恋をして、そしてその圧倒的な才能の前にひれ伏すようにして逃げ出した、美術部の先輩だった。
「……蓮、先輩……?」
葵の唇から、乾いた微かな呟きがこぼれ落ちた。二人の間には、わずか五メートルほどの空間しか残されていない。しかしそこには、二年間という歳月と、互いが別々の場所で積み上げてきた、見えない時間が冷たい空気の壁となって横たわっていた。蓮は少し困ったように眉根を寄せると、足元のバッグをドサリと床に置き、ゆっくりと歩み寄ってきた。その歩幅は、放課後のアトリエで、葵のキャンバスを覗き込みにくる時と、驚くほど何も変わっていなかった。
「相変わらずだな、お前。傘、早く閉じないとスカートが濡れるぞ」
彼の視線が、葵の手元にある半開きの折りたたみ傘に向けられる。その指摘があまりにも二年前の日常の延長線上にあったため、葵は胸の奥を激しく揺さぶられた。時計の針が、狂ったように逆回転を始めるのを感じていた。




