3-14 春の訪れ
ルディア学院、中等部。
カミス先生の研究室。
長い冬を終え、窓の外から暖かい陽射しが差し込むようになっていた。
私はいつものように実験に勤しんでいたが、少しだけ感慨に耽る。
「来月には私も卒業か」
というのに、この日もカミス先生は不在だった。
なんでも鉱山会社との仕事が忙しく、教師業そっちのけで飛び回っているらしい。
「というのに、貴方のほうはいるのね」
本来はこの研究室には何の関係もない、赤毛の下級生の少年がソファに横たわっていた。
もう、このソファ、カミス先生よりこの子のほうが使ってるんじゃないかしら?
「僕も好きで来てるわけじゃない」
ソファに横になっていた少年だが、まだ少し苦しそうだった。
結局この少年は一年もの間、時折思い出したようにフラリと、この研究室を訪れていた。ここに来ると心臓の病気が楽になるというのは、強ち嘘ではないらしい。
研究室にある薬品は全部調べたんだけどなあ。
全部空振り。
窓の外に生える植物まで調べたが、何が彼の病気に作用しているかはわからなかった。
「来月から大丈夫? この研究室、来月でなくなるよ」
「えっ!?」
赤毛くんは知らなかったようだ。
今年度でカミス先生は退任する。当然この研究室もなくなる。
「まあ、大丈夫じゃないかな」
「こんなに倒れているのに?」
「身体を鍛え始めたんだ」
苦しそうなのは変わらない。それなのに強がってみせる。
そう、彼はいつも強がっていた。
「最近走ってるんだ。心臓を鍛えている」
「心臓って鍛えられるの?」
「鍛えられると聞いた。それを信じて走ってる」
ただ、最初の頃より少しだけ明るくなっただろうか。
最初の頃は泣き言ばかり言っていた。
それが、いつの頃からか、こういった逞しいことを言うように変わった。
だけど、来月から彼は本当にどうするのだろう?
カミス先生が居なくなっても、この部屋なら彼の身体は良くなるのだろうか?
そうでなかったら、彼は保健室で休む? それで本当に良くなる?
心配が尽きない。
「ねえ、赤毛くん……」
気がつけば私は、それを口にしていた。
「私の名前は……」
「待って!」
具合が悪いのに、鋭い声。
赤毛の少年は起き上がっていた。
片手を開いて、手の平を私に向かって突き出す。
青白い顔をしたまま差し出された力のない手。下級生の少年の、まだ小さな手だ。
だけど、とても大きな手。
「貴女に迷惑をかけたくない」
振り絞るような少年の声。
その声に、私はただ従うしかなかった。
「ごめん……」
窓から降り注ぐ陽光が、春の訪れを告げていた。
◇◇◇◇◇
あーあ、私もまだまだだなあ。
少年から受けた強い言葉に動揺した私は、実験が手につかなくなった。
仕方ないので、実験器具で珈琲を淹れる。
慣れた手付きでフラスコとランプを設置。カミス先生直伝のサイフォン装置だ。なんとなく、これ、好きなんだよね。
ぐつぐつと泡立つ珈琲。
その向こうのソファには横たわった赤毛の少年。
この一年、何度もあった光景。
静かな時間が過ぎる。
そして、実験室に珈琲の香りが満ちた頃、淹れたての珈琲を口に含んだ。
と、それを見た赤毛の少年が、再びのっそりとソファから起き上がった。
なんだか睨めつけるような目。
「それ、僕も飲みたい」
「えっ、珈琲だよ。苦いよ」
「子供扱いするな」
「そういうわけでもないけど。でも、どうだろう? カフェイン入っているし。心臓に悪いんじゃないかな」
赤毛くんは凄く不満そうだが、これを渡すわけにはいかない。
「だって、いつも美味そうに飲んでいるから」
「そうかな?」
「そうだよ。いつかその珈琲を飲んでみたい」
「心臓が良くなったらね。それに飲めるようになったら、もっと良い珈琲飲みなよ。これ安物だよ」
身体を鍛えても、私の卒業までは無理じゃないかなあ。まあ、彼の身分なら、もっと高価な豆の珈琲がいくらでも飲めるでしょう。
そんなことを思っていたら、赤毛くんが、ばたん、と再びソファに倒れた。そのまま、ぷいっと、そっぽを向く。
あ、拗ねた。
さっきは上級貴族らしい態度だったのに、こういうところは、まだまだ少年だなあ。
しょうがない。
赤毛くんが横たわるソファに近づき、彼の頭を持ち上げる。
「わっ、なんだ!?」
「良いから」
そして、私はソファに腰を下ろし、私の膝の上に彼の頭を乗せた。
膝枕だ。
そっぽを向けないように顔を掴んでやった。
「ふふん」
「こんなことしなくても……」
赤毛の少年はやや頬を染めただろうか。
良かった。血色は戻っている。
「具合良くなってきた? でも、もう少しこのまま休んでなさい。ほら、目も閉じて良いから」
少年は微妙な表情を浮かべていたが、なんだかんだ、目を瞑った。
しばらくすると静かな寝息を立て始める。
赤いツンツンした髪を撫でた。
と、少年が不意に涙を流した。
「……っ」
「どうしたの?」
だが、返事はない。
夢を見ているようだ。
たぶん、高貴な家の少年だ。私など計り知れないような何かを背負っているのだろう。
可哀想というのも違う。
この少年が何者かは知らない。だけど、たくさんのものを抱えていることだけは伝わってきた。
ハンカチで少年の涙を拭いてやる。
この少年はこんなにも耐えているのに……。
どうにも、やるせなかった。
中等部の卒業を控えた、ある日のことだ。
私と赤毛の少年が会ったのは、その日が最後となった。




