87.まどろみ
「大丈夫、変なことしないよ。怖くないよ」
『変質者の常套句』
「そんなことないって。リリーの読む小説って物騒だね」
『は?』
「いいからほら、おやすみー。俺、体温高いからあったかいでしょ。湯たんぽか大型犬かなんかだと思ってくれていいから」
『いや、思えるか!』
ぎゅむぎゅむと抱きしめられて、こちらがクッションかぬいぐるみにでもなった気分だ。
『な、なにかしたらぶっ飛ばすからね。物理的に、徹底的に』
「うん。気が済むまでどうぞ」
『勢い余ってやりすぎるかもしれないけど』
「俺頑丈だからだいじょーぶ」
とん、とん、とん。
背中に触れる手が優しくて、本当に幼子にでも戻ったような気分だ。
眠気なんて吹き飛んでいたはずなのに、まどろみが私に絡みついてくる。
ただひとつ気になることがあるとすれば――
バクバクバクバクバクバクバクバクバクバクバクバク……
『うるさっ。心臓が爆音すぎるんだけど』
「あ~……それは俺じゃどーにもなんないから我慢してください」
『ええー?』
おやすみ、と背中に触れていた手が頭に移動する。
髪を梳くように丸い輪郭を撫でる指先が心地良い。
とろりと意識が輪郭を失っていく。
いーこいーこ、と間延びした穏やかな声が頭上から降ってくる。
うとうとと揺蕩う意識、柔らかな布団の重み、少し高めのセオルの体温、ちょっとうるさい鼓動。
もう少しこのぬるま湯みたいな気持ちよさのなかにいたいけど、眠たくてたまらない。
寝たいのに寝たくない、変なジレンマだ。
「大好きだよ、リリー」
こめかみに柔らかいものが触れた。
何もしないって言ったのに、相変わらず嘘つきだ。
そう悪態をついてやろうと思ったのに『わたしもすき』と本音がこぼれた。
ちゃんと言葉になってたかはわからないけど、口にしたら胸の奥がぽかぽか温かくなって、私はそのまま包みこまれるように眠りへと落ちていった。
※
柔らかな朝の日差しが差し込んでいる。
寝起き特有のふわふわとした心地よさに包まれながら、あくびをひとつ。
もぞもぞと身じろぎすると、隣に何か温かいものがあることに気づいた。
なんかいい匂いする。
ぼうっとした頭のまま、その何かにおでこをぐりぐりとこすりつけながら体勢を整える。
やっと落ち着く場所を見つけ、満足して、もうひとつあくびをした。
「おはよ」
少し掠れた声に重い瞼を持ち上げる。
見慣れてきた整った顔が至近距離にあって、一気に目が覚めた。
『おっ、おはよ……』
声が裏返った。
恥ずかしい。
「よく眠れた?」
『た、多分?』
「身体に戻ってみようか」
『うん』
セオルに促されて部屋に戻ると、ちょうど侍女のマリアが髪の手入れをしてくれているところだった。
丁寧に櫛を通してもらった私の髪は、絹糸のようにサラサラだ。
髪が細くて絡まりやすいのに、寝たきりになった今でも綺麗に整えられているのはマリアの努力の賜物。
『いつもありがとう』
聞こえないとわかっていても、言わずにはいられなかった。
髪を梳かれながら鏡越しに見るマリアの表情は、いつだって慈愛に満ちていた。
それは今も同じ。
私の大好きな、優しい顔。
私の髪の毛先が黒くなったなんて知ったら、卒倒しちゃうかも。
そしたらやだな。
自分に倒れ込むようにして、肉体へ戻る。
いつもなら疲労感が襲ってくるのに、今はまったくない。
精神体でも眠ることができる。
そして精神体の状態でとった睡眠にも回復効果がある。
いや、むしろ精神体で寝たときの方が元気になっているような気がする。
さすがに気のせいだとは思うけど。




