84.濡れ衣と契約
いつの間にか腕の拘束は解かれ、セオルの長い指が私の髪をすくいあげる。
そのまま見せつけるように髪に唇を落とされて、喉の奥はキュッと締まった。
じいっと私を見つめる黒々とした瞳は、こちらの反応を観察しているようだった。
恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうだ。
耐え切れずに視線をそらすと、頬を包み込むように両手が添えられる。
そのままほっぺ、おでこ、まぶた、鼻先へと次々唇が降ってきた。
ちゅ、ちゅ、というリップ音が羞恥心を煽る。
キスの雨ってやつだ、恋愛小説で何度も見た。
そんなことを考えながら思考を逸らそうとしても、恥ずかしくて、どこかもどかしくて、噛み殺すような呻き声しか零れない。
『ひゃっ!』
首筋に吸い付かれて、裏返った声が出た。
『く、くすぐったい』
「かーわいー」
くすくすとセオルが笑う。
なにそれ、舐めてんの?
そもそもなんでそんなに慣れてんの?
『もうおわり』
「え~?もう?」
『終わり!』
ぐいーっと腕を使って押しのけると、次は素直に距離をとってくれた。
『……ずいぶんこなれてんのね』
ちょっとむっとして、嫌味を言う。
なのにセオルはまったく気にした様子はなくて、もやもやが胸に広がっていく。
『どこで練習したわけ?』
もやついた気分のまま、嫌な言葉が口をつく。
かわいげのない自分が嫌になる。
『ま、私には関係ないけど。でも、そーいうのは人目のないところでやってよね』
「え?待って」
『言い訳しなくていいけど』
「いや、そうじゃなくて」
『じゃあ何?口出されることじゃないって?』
「いや……え?やきもち?」
『は?!』
図星をさされたからか、思ったよりも大きな声が出てしまった。
これ以上墓穴を掘るわけにはいかなくて、ふいっと顔を逸らす。
「なにそれ。思考回路が謎なんだけど」
『……女慣れしてるじゃん』
「え、心臓ばっくばくだけど。ほら」
手を取られて、胸元に導かれる。
相変わらず早鐘を打つような忙しさだ。
激しく脈打つ心臓に、濡れ衣を着せたのかもしれないとちょっと反省する。
「え?俺がこーいうの慣れてるって思って、存在もしない誰かにやきもち焼いたってこと?」
みなまで言うな、恥ずかしすぎる。
「やばっ。可愛すぎない?俺のこと殺す気?」
何言ってんだ、コイツ。
変に誤解されて怒ってるのかと思ったら、なんか悶えてる。
「え?死ぬ前にもうちょいキスしたいんだけど。いい?いいよね?」
『いっ、いいわけないでしょ!』
「え~~?ケチ~~」
『ケチじゃないし』
ふふ、とセオルが笑う。
なんだかすごく楽しそうで、濡れ衣を着せたことを謝るタイミングを逃してしまった。
「リリー」
『……なに』
「俺には、リリーだけだからね」
『……ふぅん』
「リリーだけが好きだから、安心していいよ」
『……わかった』
「心配なら、リリー以外の女性と性接触をしたら死ぬ魔法でもかけとこうか?」
『は!?そ、そんな物騒なのいらないっ』
なにをどうしたらそういう発想になるんだ。
『……お妾さんとか、珍しくはないでしょ』
「紳士のたしなみってやつ?ふざけてるよね、アレ」
『ふざけてるって』
思わず笑ってしまった。
国の法律では、男女ともに配偶者はひとりと定められている。
外国には、妻を何人も娶れる一夫多妻の国も多いけれど、我が国では重婚は許されていない。
新しい配偶者を得るには、今の配偶者と離縁する必要がある。
しかし貴族には、愛人を囲う者も少なくない。
幸いお父様はお母様一筋で、そういう相手の影すら感じたことはないけれど。
「だいじょーぶ、うちは一途な家系だから」
『……ふぅーん』
「結婚するときは、契約を交わすのがしきたりなんだよ」
『しきたり?』
グレイ伯爵家は古くから続く名家だ。
しきたりのひとつやふたつ、あって当然だろう。
しかし婚姻にまつわるしきたりならば、事前に知らされてもよさそうなものなのに、今まで耳にしたことはなかった。
『どんな契約?』
「生涯愛を誓う契約」
『なにそれ?』
「妻だけを愛し、敬い、大切にすることを誓うんだよ。心臓を媒介にするから、約束を違えたら命を落とすことになる」
『は?こわっ。さすがに重くない?』
「大丈夫、誓うのは伯爵家の人間だけだから」
『え?』
つまり、一方的な契約だということだ。
伯爵家の人間は、配偶者に生涯をかけて尽くす。
だからといって、同じだけの愛情を返してもらうことを強要はしない、と。
「ま、だからといってほかの男に目移りしていいわけじゃないけど」
そういうセオルの瞳の奥に揺らめく炎が見えた気がした。
契約は結婚式を終えたあとに親族のみを集めた場で行われ、本来なら配偶者はその場で初めて契約について知るという。
『結婚式直後にそんな衝撃的な契約の存在なんて知りたくないけど』
「最大級の愛の表現だからね」
『おっも』
悪態をつきながらも、思わず笑ってしまった。
もしもその場で私が、同じように契約を結ぶことを望んだら、この人はどんな顔をするのだろうか。
喜んでくれるだろうか、それとも困惑するだけ?
私も、あなただけ。
そう素直に言える日が、いつか訪れますように。




